第58回 伊藤積分の作り方 ― 左端点を取るという決断

第58回 伊藤積分の作り方 ― 左端点を取るという決断

位置: 第6部 第58回 / 前提: 第57回 / 数学編: M14、M18、M20、M21 / この回でできるようになること: 伊藤積分を左端点の和として計算し、代表点の取り方で答えが変わる理由を説明できる

目次

0. 物語 ― 代表点をずらすと答えが変わる

株価が毎秒ランダムに動く銘柄を、1年間売買し続けるとします。ただし保有する株数は、その時点の株価の水準と同じ数に合わせて変えていきます。株価が高いときは多く、低いときは少なく持つわけです。損益は「保有株数×値動き」の形でたまっていきます。この「たまった損益」を計算する方法を考えてみましょう。

最もまっすぐなやり方は、1年間を細かい時間に区切り、各区間の初めの株価、つまりその区間の保有株数と、区間中の値動きを掛けて足し合わせることです。区間の「初め」を使うのは、その時点の株価を見てから保有株数を決めている、という意味です。1万回のシミュレーションで平均を取ると、この合計はほぼゼロになります。毎回の値動きが上にも下にも等しく揺れるので、平均すれば損も得もありません。

ところが、計算の仕方を少し変えてみます。各区間の初めの株価ではなく、初めと終わりの真ん中の株価を使って同じ足し算をするのです。やっていることは「どの時点の株価を代表に使うか」を半歩ずらしただけです。

結果は劇的に違います。同じ1万回のシミュレーションで平均を取ると、合計はゼロではなく約0.5になります。初めの値を使った場合と真ん中の値を使った場合で、差は0.5です。計算の仕方をほんの半歩ずらしただけで、平均の損益がゼロから0.5に跳ね上がるのです。

この0.5はどこから来たのでしょうか。実は、ブラウン運動の経路は普通の曲線と違って無限に細かく振動しているため、代表点をどこに取るかで足し算の結果が変わってしまいます。普通の滑らかな関数なら、初めを取っても真ん中を取っても、区間を十分細かくすれば同じ値に収束します。ブラウン運動ではそうなりません。

この回では、代表点を区間の初めに固定する積分の定義を作り、それがなぜ「平均ゼロ」という望ましい性質を持つのかを証明します。

1. 動機 ― ブラウン運動で積分するとはどういうことか

この回を読み終えると、伊藤積分を左端点の和として計算し、代表点の取り方で答えが変わる理由を説明できます。

第56回で、ブラウン運動の経路は微分できないことを見ました。第57回で、二次変分 が消えないことを証明しました。微分できないのに、積分はできるのでしょうか。

金融数学の問題に積分は不可欠です。株の保有量 を時間とともに変えるとき、累積の損益は

の形をしています。この積分を定義するのが今回の目的です。

鍵は代表点を左端に取ることです。分割の各小区間で、被積分過程の値を区間の左端で評価します。右端でも中点でもなく、左端です。この選択が金融的に自然であり、かつ数学的にマルチンゲール性と等長性を保証します。

この記事で証明すること

  • THM-II-1 左端点の値を使った和として定義した積分は、マルチンゲールになります。
  • THM-II-2 積分の二乗の期待値は、被積分過程の二乗の時間積分の期待値に等しくなります(伊藤等長性)。
  • THM-II-3 二乗可積分な適合過程は単純過程で近似でき、等長性により積分が の極限として一意に定まります。

2. 設定と仮定 ― 適合で二乗可積分な被積分過程

積分 を定義するために、 に課す条件を明確にします。

  • 適合: は時刻 までの情報 で決まります。将来の値を見て を決めることは許しません。
  • 二乗可積分: 。
  • 代表点は左端に固定: 区間 で の値として を使います。中点を取ると別の積分になります。

最も簡単な被積分過程は単純過程です。時間を と分割し、各区間 で (定数、-可測)とします。単純過程に対する積分は、和として定義できます。

数値実験では乱数のシードを42に固定します。

この節のまとめです。被積分過程は適合かつ二乗可積分であることを要求します。単純過程は最初の足場であり、ここから一般の過程へ拡張します。

3. 主張 ― 左端を取るとマルチンゲールになる

定理 THM-II-1(単純過程に対する伊藤積分はマルチンゲール) 区分的に一定で適合な被積分過程 に対し、伊藤積分

はマルチンゲールである。すなわち for が成り立つ。

定理 THM-II-2(伊藤等長性) 単純過程 に対して

定理 THM-II-3(一般の被積分過程への拡張) 二乗可積分な適合過程は単純過程の列で の意味で近似できる。等長性により伊藤積分は の極限として一意に定まる。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 単純過程から等長性を出す

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第14回「ルベーグ積分」、数学編 第18回「収束の4概念」、数学編 第20回「有界変動とリーマン・スティルチェス積分」、数学編 第21回「ブラウン運動で普通の積分ができない理由」へ。

THM-II-1 の証明

単純過程 ()に対する積分は

マルチンゲール性を示すには、各項 の条件付き期待値を調べます。

のとき、 のもとで 番目の項を見ます。 は -可測で、 は と独立です。したがって

内側の条件付き期待値を計算します。 は -可測なので外に出せます。増分 は と独立で期待値0ですから

したがって (4.2) = 0 です。未来の項はすべて条件付き期待値が0です。

番目までの項は -可測ですから、条件付き期待値は自分自身です。これで

が成り立ち、マルチンゲール性が示されました。

この証明で左端点が効いているのは (4.3) です。 が -可測、つまり区間の左端の情報で決まるからこそ、増分と独立になります。もし が の情報を含んでいたら、この因数分解ができません。 ∎

THM-II-2 の証明

(4.1) の二乗を展開します。

期待値を取ります。 のとき( と仮定しても一般性を失いません)、 は 、、 のすべてと独立です。増分の期待値は0なので、クロス項の期待値は0になります。

残るのは の項だけです。

は -可測で、 は と独立です。独立な確率変数の積の期待値は期待値の積なので

増分の二乗の期待値が分散 に等しいことを使いました(期待値0の確率変数の二乗の期待値は分散)。

(4.5) を (4.4) に代入すると

右辺は そのものです( が単純過程なので積分は和に帰着します)。 ∎

THM-II-3 の証明の骨格

この定理は要点を示す扱いなので、証明の筋道を順に追います。

ステップ1: 近似の存在。 二乗可積分な適合過程 に対して、単純過程の列 で

を満たすものが存在します。これは 空間での稠密性の議論です。

ステップ2: コーシー列。 等長性を使います。

等長性のおかげで、被積分過程の -コーシー列から積分の -コーシー列が作れます。

ステップ3: 極限の一意性。 は完備なので極限 が存在し、近似列の取り方に依存しません。 ∎

5. 反例 ― 中点を取ると別の積分になる

CEX-II-1: 左端和と中点和で結果が違う

を左端和と中点和で計算します。

左端和(伊藤積分): 。1万本の標本路での平均は です。

中点和(ストラトノビッチ型): 。同じ標本路での平均は です。

標本路ごとの差(中点和 左端和)の平均は で、理論値 にぴったり一致しています。

この差はどこから来るのでしょうか。中点和を展開すると

第1項は左端和(伊藤積分)です。第2項は で、これは二次変分の半分です。(第57回)なので、差は です。

中点和を使うと、マルチンゲール性が失われます。左端和の期待値は (マルチンゲール性から)ですが、中点和の期待値は です。金融での解釈は、「今持っている情報だけで保有量を決める」ことに対応するのが左端です。中点を使うと、区間の終わりの情報も使ってしまいます。

CEX-II-2: 適合性を壊す

被積分過程が適合でない場合、つまり将来の値を使って を決める場合を考えます。THM-II-1 の証明で (4.3) が成り立つのは、 が -可測だからでした。将来の値を知っている では、この独立性が壊れます。

具体例として (満期の値を常に使う)を取ると、 となり、期待値は です。マルチンゲール性が壊れています。

等長性も壊れます。左辺 、右辺 で、 です。適合性がなければ、伊藤積分の2つの基本的性質がどちらも失われます。

CEX-II-3: 標本路ごとに定義できない

ブラウン運動の経路は有界変動でないため(数学編 M21)、リーマン・スティルチェス積分としての は定義できません。標本路ごとに積分を作ろうとすると、被積分過程が連続であっても、代表点の取り方で和の極限が変わったり(CEX-II-1)、和が収束しなかったりするため、積分を一つに定められません。

伊藤積分が -極限として定義されるのは、このためです。個々の標本路ではなく、確率変数の空間で極限を取ります。等長性が、この -極限の存在を保証する鍵です。

この節のまとめです。代表点を中点に取ると のずれが生じてマルチンゲール性を失い、適合性を壊すと等長性も壊れ、標本路ごとの定義は有界変動でないため不可能です。

6. 数値例 ― 左端和と中点和を比べる

を1万本の標本路で計算し、左端和と中点和を比べます。

左端和(伊藤) 中点和
平均

差の平均は で、理論値 に一致します。

伊藤等長性の検証を3つの被積分過程で行います。

左辺 右辺 比

比はいずれも1に近く、等長性が成り立っています。 では理論値が正確に であり、数値もほぼ一致しています。

マルチンゲール性の検証: の各時点での期待値を見ます。

期待値 標準偏差

期待値はすべての時点で0に近く、マルチンゲール性と整合しています。一方、標準偏差は とともに増加しており、積分自体は大きく広がっていきます。期待値は0でも、個々の標本路では大きな値を取りうることが分かります。

この節のまとめです。左端和は期待値0のマルチンゲールであり、中点和との差は です。等長性は3つの被積分過程で数値的に確認できました。

7. 次回へ ― 連鎖律に項が増える

伊藤積分を定義できたので、次は の微分公式を求めます。普通の微積分では ですが、二次変分が消えないブラウン運動では余分な項 が加わります。これが伊藤の補題です。次回 59(a) で証明します。

次のマイルストーンまであと 21 本です。

よくある質問

なぜ左端なのですか

今の情報だけで保有量を決める、という金融的な要請と一致するからです。将来を見て決めることになりません。

中点を取るとどうなりますか

ストラトノビッチ積分という別の積分になります。普通の連鎖律が使える代わりに、マルチンゲール性を失います。

等長性は何の役に立つのですか

近似の誤差を測る物差しになります。これがあるから極限が定義できます。

参考文献

  1. Itô K.、Stochastic Integral、Proceedings of the Imperial Academy、1944年、DOI 10.3792/pia/1195572786
  2. Karatzas I. and Shreve S. E.、Brownian Motion and Stochastic Calculus、第2版、Springer、1991年

数値例は compute.py により乱数シード42で計算。等長性の比が1に近いことを assert で確認済み。

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