位置: 数学編 第26回(M26) / 前提: M3(微積分の基礎)、M5(多変数関数の微分) / 数学編: M26 / この回でできるようになること: 熱方程式を基本解で解き、解が一意に決まる条件を説明できる
目次
0. 物語 ― 時間を逆向きには解けない
前の回で扱った微分方程式は、時間が進む方向に解くことを前提にしていました。今回の熱方程式にも同じ前提がありますが、ここでは別の面から見てみます。「時間を逆向きに解くとどうなるか」という問いです。
金属の棒を一点だけ熱したとします。しばらくすると熱は周囲に広がり、なだらかな温度分布になります。では、広がった後の温度を正確に測って、もとの状態を逆算できるでしょうか。
答えは「原理的にできない」です。
測定には必ず誤差が入ります。その誤差がどれほど小さくても、時間を逆向きに戻そうとすると、細かい振動の成分が桁違いに増幅されます。たとえば百万分の一の測定誤差があったとき、ある周波数の振動では、たった0.1だけ時間を巻き戻すだけで、その誤差が約2700兆にまで膨れ上がります。もっと細かい振動になると、増幅率は10の85乗を超え、もはやいかなる計算機でも扱えない大きさに達します。
身近な例で言えば、水に垂らしたインクが広がっていく過程を思い浮かべてください。インクが広がる様子は予測できますが、広がりきった後のインクから元の一滴がどこに落ちたかを復元するのは不可能です。拡散という現象は、情報を消す方向にしか働きません。
この回では、こうした拡散現象を記述する熱方程式を立て、その解が正規分布の密度関数と深く結びついていることを証明します。そして、正方向には安定に解けるのに逆方向には解けないという非対称性を、数値で確認します。
1. 動機 ― 熱が広がる様子を方程式で書く
この回を読み終えると、熱方程式を基本解で解き、解が一意に決まる条件を説明できます。
金属の棒の一点を熱すると、熱は時間とともに周囲へ広がります。この「広がり方」を記述するのが熱方程式です。温度 u(x,t) が位置 x と時刻 t の関数であるとき、熱の拡散は
という偏微分方程式に従います。右辺の係数 1/2 は拡散係数を吸収した形で、確率論との対応を見やすくするためにこの正規化を使います。
なぜこの方程式が金融に関係するのでしょうか。ブラウン運動の分布は時間とともに正規分布として広がりますが、その密度関数がまさにこの方程式の解になっています。将来、ブラック・ショールズ方程式を変数変換すると熱方程式に帰着することを見ます。そのための土台が今回の内容です。
この節のまとめ: 熱方程式は拡散現象を記述する最も基本的な偏微分方程式であり、確率論・金融数学の基盤です。
この記事で証明すること
- THM-M26-1(基本解) 熱方程式 ut=uxx/2 の基本解は、平均 0、分散 t の正規分布の密度に等しいことを示します。
- THM-M26-2(初期値問題の解) 有界連続な初期値に対し、解は初期値と基本解の畳み込みで与えられます。
- THM-M26-3(最大値原理) 有界な領域では、熱方程式の解の最大値は初期時刻か境界で取られます。
2. 設定と仮定 ― 空間全体での初期値問題
次の仮定のもとで議論します。
- 空間: 実数直線全体 x∈R を考えます。
- 初期値: 時刻 t=0 で温度分布 u(x,0)=f(x) が与えられます。f は有界連続とします。
- 方程式: すべての x∈R, t>0 で (1.1) を満たす関数 u(x,t) を求めます。
- 一意性: 解の一意性は、∣u(x,t)∣≤Meax2(ある定数 M,a>0)という増大条件のもとで成り立つことを引用します(Evans, 2010)。
- 数値例: 畳み込みは数値積分で計算します。
この問題を初期値問題(コーシー問題)と呼びます。「時刻 0 の状態が分かっているとき、将来の状態を求めよ」という問いです。
この節のまとめ: 空間全体 R 上で有界連続な初期値を与え、増大条件のもとで解の一意性を認めます。
3. 主張 ― 解は正規分布の密度との畳み込み
定理 THM-M26-1(基本解)
関数
Φ(x,t)=2πt1exp(−2tx2),t>0(3.1)は熱方程式 (1.1) を満たす。これは平均 0、分散 t の正規分布 N(0,t) の密度関数に他ならない。Φ を熱方程式の基本解(熱核)と呼ぶ。
定理 THM-M26-2(初期値問題の解)
f:R→R が有界連続であるとき、
u(x,t)=∫−∞∞Φ(x−y,t)f(y)dy(3.2)は t>0 で熱方程式 (1.1) を満たし、t→0+ で u(x,t)→f(x) が各点で成り立つ。
定理 THM-M26-3(最大値原理)
有界な領域 [a,b]×[0,T] 上で熱方程式を満たす連続関数 u の最大値は、初期時刻 t=0 または空間の端 x=a,x=b 上で達成される。すなわち、内部の点 (x0,t0)(a<x0<b, 0<t0≤T)での値が、初期時刻と空間の端での最大値を超えることはない。
(3.2) は「初期値 f を基本解 Φ で畳み込む」操作です。時刻 0 に位置 y にあった熱が、時刻 t に位置 x へ広がる「確率」が Φ(x−y,t) であると読めます。
この節のまとめ: 基本解は N(0,t) の密度であり、初期値との畳み込みが解を与えます。最大値原理は解が内部で極端な値を取らないことを保証します。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 基本解が方程式を満たすことを示す
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第3回「偏微分、全微分、多変数のテイラー展開」、数学編 第5回「積分の技法とガウス積分」へ。
THM-M26-1 の証明
Φ(x,t) が (1.1) を満たすことを、偏微分を直接計算して確認します。
Φ(x,t)=(2πt)−1/2exp(−x2/(2t)) と書きます。指数部分を E=−x2/(2t) とおきます。
x についての偏微分を計算します。E を x で微分すると ∂E/∂x=−x/t です。したがって
∂x∂Φ=Φ⋅∂x∂E=−txΦ.(4.1)
もう一度 x で微分します。積の微分法則を用い、−x/t の x 微分が −1/t であることに注意すると
∂x2∂2Φ=−t1Φ+(−tx)(−txΦ)=(−t1+t2x2)Φ.(4.2)
t についての偏微分を計算します。Φ の t 依存は (2πt)−1/2 と exp(−x2/(2t)) の両方に入っています。前者の t 微分は −2t1(2πt)−1/2 であり、後者の指数部分 E=−x2/(2t) の t 微分は ∂E/∂t=x2/(2t2) です。積の微分法則により
∂t∂Φ=−2t1Φ+Φ⋅2t2x2=(−2t1+2t2x2)Φ.(4.3)
(1.1) の確認。(4.2) を用いて
21∂x2∂2Φ=21(−t1+t2x2)Φ=(−2t1+2t2x2)Φ.
これは (4.3) の右辺と一致します。したがって Φt=Φxx/2 が成り立ちます。
正規分布との対応を確認します。N(0,t) の密度関数は (2πt)−1/2exp(−x2/(2t)) であり、(3.1) の Φ(x,t) そのものです。 ∎
THM-M26-2 の証明
(3.2) で定義された u(x,t) が熱方程式を満たすことを示します。
微分と積分の交換。f が有界(∣f(y)∣≤M)であり、Φ(x−y,t) は t>0 で (x,t) について無限回微分可能です。さらに、Φ の各偏導関数は y→±∞ で急速に減少するため、M 倍のそれらが y に関して可積分です。したがって、微分と積分を交換できます(ルベーグの収束定理を用います)。
微分を積分の中に入れると
∂t∂u=∫−∞∞∂t∂Φ(x−y,t)f(y)dy,(4.4)
∂x2∂2u=∫−∞∞∂x2∂2Φ(x−y,t)f(y)dy.(4.5)
THM-M26-1 より Φt=Φxx/2 が各点で成り立つので、(4.4) と (4.5) の右辺を比較すると
が得られます。u が (1.1) を満たすことが示されました。
初期条件の復元。t→0+ で Φ(x−y,t) はデルタ関数 δ(x−y) に近づきます。正確には、任意の ε>0 に対して
∫∣x−y∣>εΦ(x−y,t)dy→0(t→0+)
が成り立ちます。これは Φ(⋅,t) が N(0,t) の密度であり、t→0 で分散が 0 に縮むことから従います。f が x で連続であることと、Φ の積分が 1 であることを組み合わせると
∣u(x,t)−f(x)∣=∫−∞∞Φ(x−y,t)(f(y)−f(x))dy≤∣y−x∣<εsup∣f(y)−f(x)∣+2M∫∣x−y∣>εΦ(x−y,t)dy.
f の連続性より第1項は ε→0 で 0 に近づき、第2項は t→0+ で 0 に近づきます。よって u(x,t)→f(x) です。 ∎
THM-M26-3 の証明(要点)
最大値原理の要点を述べます。
内部の点 (x0,t0) で u が最大値を取ると仮定します。最大値の必要条件として
∂x2∂2u(x0,t0)≤0,∂t∂u(x0,t0)≥0
が成り立ちます。第1式は、x 方向の2階微分が最大点で非正であるという極値の条件です(山の頂上は下に凸ではありえない)。第2式は、t0 が時間区間の内部にある場合は等号ですが、t0=T(上端)の場合は非負で十分です。
ところが熱方程式 ut=uxx/2 より
よって ut=0 かつ uxx=0 です。これだけでは矛盾に至りません(実際、定数関数は内部でも最大値を取ります)。そこで v(x,t)=u(x,t)−εt(ε>0)と摂動を加えます。vt−21vxx=ut−ε−21uxx=−ε<0 です。v が内部の点で最大値を取るなら、上と同じ必要条件から vt≥0 かつ vxx≤0 なので vt−21vxx≥0 となり、矛盾します。よって v の最大値は初期時刻か空間の端で取られます。u≤v+εT なので、u の内部での値は「初期時刻と空間の端での u の最大値 +εT」以下です。ε→0 の極限で u についての最大値原理が得られます。
最大値原理は「熱は内部に溜まらず、必ず外へ逃げる」という物理的直観を数学的に表したものです。 ∎
5. 反例 ― 逆向きには解けない
CEX-M26-1: ティホノフの例 ― 零の初期値から非自明な解
増大条件 ∣u(x,t)∣≤Meax2 を満たさない解が存在します。ティホノフ(1935)は、u(x,0)=0 であるにもかかわらず u≡0 となる熱方程式の解を構成しました。
この解は ∣x∣→∞ で exp(cx2) よりも速く増大します。増大条件を課さないと一意性が破れ、「0 から出発して 0 でない」解が作れてしまいます。THM-M26-2 の有界性の仮定は、このような病的な解を排除するために必要です。
この節のまとめ: 増大条件なしでは初期値 0 から非自明な解が構成でき、一意性が崩れます。
CEX-M26-2: 時間を逆向きに解くと誤差が爆発する
熱方程式の時間を逆向き(t→−t)にすると、ut=−uxx/2 という方程式になります。正弦波モード sin(nπx) を考えると、正方向では振幅が e−n2π2t/2 で指数的に減衰します。ところが逆向きでは e+n2π2t/2 で指数的に増幅します。
波数 n=10 で t=0.1 だけ逆向きに戻すと、増幅率は約 2.70×1021 です。10−6 の誤差が 2.70×1015 にまで膨れ上がります。n=20 では増幅率が約 5.32×1085 に達し、もはやいかなる精度でも制御不能です。
この不安定性は、熱方程式が本質的に「情報を消す」方程式であることを意味します。広がった後の状態から元の分布を復元するのは、原理的に困難です。
この節のまとめ: 逆向きの熱方程式では高周波成分が指数的に増幅され、小さな誤差が破滅的な結果をもたらします。
CEX-M26-3: 不連続な初期値が瞬時に滑らかになる
初期値 f(x)=1(∣x∣≤1)、f(x)=0(∣x∣>1)は x=±1 で不連続です。しかし t>0 の瞬間に解は無限回微分可能になります。
t=0.01 での不連続点付近の値を見ます。x=0.99 で u=0.539828、x=1.00 で u=0.500000、x=1.01 で u=0.460172 です。元の初期値では 1 から 0 へ跳んでいたのに、ごくわずかな時間で滑らかな遷移に変わっています。
これは基本解 Φ が t>0 で無限回微分可能であることの帰結です。畳み込み (3.2) において、Φ の滑らかさが f の不連続性を瞬時に「塗りつぶし」ます。初期値の滑らかさが「保たれる」のではなく、「瞬時に獲得される」のです。
この節のまとめ: 熱方程式の解は t>0 で自動的に無限回微分可能になり、初期値の不連続性は瞬時に消えます。
6. 数値例 ― 階段の初期値が滑らかになる
初期値として階段関数 f(x)=1(∣x∣≤1)、f(x)=0(∣x∣>1)を取り、数値的に検証します。
基本解が熱方程式を満たすことの確認
x=1.0, t=0.5 で数値微分により (1.1) を確認します。
ut≈0.20755323,21uxx≈0.20755342.
残差は 1.89×10−7 です。数値微分の精度の範囲で一致しており、THM-M26-1 の正しさが裏付けられます。
時刻ごとの解のプロファイル
原点 x=0 での値は、t=0.01 で 1.000000、t=0.1 で 0.998435、t=1.0 で 0.682689 です。時間が経つにつれ、初期値 1 から徐々に下がっていきます。不連続点 x=1 での値はいずれの時刻でも 0.5 付近です(t=0.01 で 0.500000、t=0.1 で 0.500000、t=1.0 で 0.477250)。対称性からこの結果は自然です。
| x |
t=0.01 |
t=0.1 |
t=1.0 |
| −2.0 |
0.000000 |
0.000783 |
0.157305 |
| −1.0 |
0.500000 |
0.500000 |
0.477250 |
| 0.0 |
1.000000 |
0.998435 |
0.682689 |
| 1.0 |
0.500000 |
0.500000 |
0.477250 |
| 2.0 |
0.000000 |
0.000783 |
0.157305 |
t が大きくなるほど分布が広がり、ピークが低くなっています。これが「熱の拡散」です。
逆向きの誤差増幅
波数 n のモードが t=0.1 だけ逆向きに増幅される倍率は次の通りです。
| 波数 n |
増幅率 |
| 1 |
1.64 |
| 5 |
2.28×105 |
| 10 |
2.70×1021 |
| 20 |
5.32×1085 |
高周波になるほど増幅率が急激に増大します。n が 2 倍になると指数が約 4 倍になる(n2 に比例する)ことが読み取れます。
解の積分値の保存
全空間での積分 ∫−∞∞u(x,t)dx は、初期値の積分 ∫−∞∞f(x)dx=2.0 と一致するはずです。数値で確認すると、t=0.01 で 1.9999、t=0.1 で 2.000000、t=1.0 で 2.000000 です。熱は広がりますが、総量は変わりません。これは物理的には「エネルギー保存」、数学的には Φ の積分が 1 であることの帰結です。
この節のまとめ: 数値計算により、基本解が方程式を満たすこと、階段関数の初期値が時間とともに滑らかに広がること、逆向きでは誤差が爆発すること、積分値が保存されることを確認しました。
7. 次回へ ― ペイオフは終端条件である
今回は「初期時刻に条件を与えて将来を求める」問題を扱いました。金融では逆に、「満期のペイオフが分かっていて現在の価格を求める」場面が多く出ます。これは終端条件を与えた問題です。
次回 M27 では、有限区間での境界条件と、時間を逆向きに読み替える終端条件を扱います。ペイオフが終端条件であるという視点は、将来ブラック・ショールズ方程式を理解するうえで鍵になります。
この節のまとめ: 初期値問題の枠組みを逆向きに読み替えると、金融のペイオフは終端条件になります。
よくある質問
熱方程式がなぜ金融に出てくるのですか
ブラック・ショールズ方程式を変数変換すると熱方程式になるからです。
基本解が正規分布なのはなぜですか
ブラウン運動の分布が時間とともに広がる様子と、熱の広がり方が同じ法則に従うからです。
逆向きに解けないとはどういうことですか
広がった状態から元の状態を復元するのは不安定で、小さな誤差が爆発するということです。
参考文献
- Evans L. C.、Partial Differential Equations、第2版、American Mathematical Society、2010年
- Wilmott P.、Howison S. and Dewynne J.、The Mathematics of Financial Derivatives、Cambridge University Press、1995年
数値例は compute.py により scipy の数値積分で検算済み。本文中の数値はすべて outputs.json から取得。