位置: 第6部 第59回(b) / 前提: 第58回 / 数学編: M2、M3、M4、M21 / この回でできるようになること: 伊藤の補題を使ってよい関数と過程かどうかを、適用条件に照らして確認できる
目次
0. 物語 ― 二階微分が連続でない関数
ある関数が、ほとんどの場所では滑らかに微分できるのに、たった一点だけ角を持つとします。その関数に「微小な変化を追いかける公式」を当てたら、答えは正しく出るでしょうか。ほとんどの場所で問題ないのだから、一点くらいは大丈夫だろう――少し考えてみてください。
答えは「大丈夫ではない」です。絶対値の関数を思い浮かべてください。原点でグラフがとがっていますが、それ以外の場所ではまっすぐです。この関数をランダムに動く量に当てて、公式で結果を計算してみます。公式をそのまま当てた側の平均はほぼゼロになります。しかし、実際に絶対値を取った側の平均は約0.80です。差はおよそ0.80もあり、これは理論が予言する値とぴたり一致します。たった一点の「とがり」が、答えを丸ごと狂わせているのです。
なぜこうなるのでしょうか。前回直感的に導いた公式には「二次の項」が含まれていました。この項は、関数の曲がり具合に拡散の二乗をかけた形をしています。絶対値のように、原点で曲がり具合が定義できない関数を当てると、この項が正しく計算できません。原点以外では曲がり具合がゼロなので追加の項は消えるように見えますが、ランダムな量は原点を何度も通過するため、そこでの寄与が積み重なって無視できなくなります。
この回で確かめるのは、「二階微分が連続である」という条件こそが公式を使えるかどうかの境目であり、この条件を外すと答えが壊れる、ということです。
1. 動機 ― 記号の約束を定理として正確に書く
この回を読み終えると、伊藤の補題を使ってよい関数と過程かどうかを、適用条件に照らして確認できます。
第59回(a)では、伊藤の補題を直感的に導きました。dt⋅dt=0, dW⋅dW=dt という「掛け算の表」を使い、テイラー展開の二次の項が残ることを見ました。
しかし直感だけでは、いつ使えるのかが分かりません。「f が十分なめらか」とはどの程度のことなのか。条件を満たさない関数に当てたら何が起こるのか。この回では、伊藤の補題を定理として正確に述べ、証明し、適用条件を明確にします。
この記事で証明すること
- THM-ITO2-1 f が t に1回、x に2回連続微分可能で、X が伊藤過程であるとき、f(t,Xt) は再び伊藤過程になります。
- THM-ITO2-2 二階微分の連続性が本質的です。これが無いと二次変分の項の極限が保証されません。
- THM-ITO2-3 伊藤過程に C1,2 級の関数を施したものは再び伊藤過程であり、この操作は繰り返せます。
2. 設定と仮定 ― 伊藤過程と C^{1,2} 級の関数
伊藤過程 Xt は次の形で書ける確率過程です。
dXt=μ(t,Xt)dt+σ(t,Xt)dWt.(2.1)
ここで μ はドリフト係数、σ は拡散係数、Wt は標準ブラウン運動です。積分の存在のために、次の可積分条件を仮定します。
∫0T∣μ(t,Xt)∣dt<∞,∫0Tσ(t,Xt)2dt<∞
がほとんど確実に成り立つこと。
係数は (t,Xt) の関数に限らず、各時刻までの情報で決まる過程(適合過程)でもかまいません。伊藤過程はこの形も含めて呼び、以下の証明はどちらでも同じように成り立ちます。
関数 f(t,x) について、C1,2 級とは次の意味です。
- f は t について1回連続微分可能(∂f/∂t が存在し連続)。
- f は x について2回連続微分可能(∂f/∂x と ∂2f/∂x2 が存在し連続)。
連続性が肝心です。偏微分が存在するだけでは不十分で、連続でなければ後の極限操作が正当化されません。
3. 主張 ― 追加項の形と適用条件
定理 THM-ITO2-1(伊藤の補題)
Xt が (2.1) の伊藤過程で、f∈C1,2 であるとき、Yt=f(t,Xt) は再び伊藤過程であり、
dYt=∂t∂fdt+∂x∂fdXt+21∂x2∂2f(dXt)2=(∂t∂f+μ∂x∂f+2σ2∂x2∂2f)dt+σ∂x∂fdWt.ここで (dXt)2=σ2dt である。
定理 THM-ITO2-2(適用条件)
∂2f/∂x2 の連続性は本質的である。これが無いと、テイラー展開の二次の項の極限が 21f′′(Xt)σ2dt になる保証が無い。
定理 THM-ITO2-3(伊藤過程の閉性)
Xt が伊藤過程で f∈C1,2 ならば Yt=f(t,Xt) も伊藤過程である。したがって g∈C1,2 をさらに施した g(t,Yt) も伊藤過程であり、この操作は有限回繰り返せる。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― テイラー展開に二次変分の収束を当てる
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第2回「テイラー展開」、数学編 第3回「偏微分、全微分、多変数のテイラー展開」、数学編 第4回「連鎖律を徹底的に」、数学編 第21回「ブラウン運動で普通の積分ができない理由」へ。
THM-ITO2-1 の証明
[0,T] を n 等分し、tk=kT/n, Δt=T/n とします。テイラーの定理を f(tk+1,Xtk+1) に f(tk,Xtk) のまわりで適用します。
f(tk+1,Xtk+1)−f(tk,Xtk)=∂t∂fΔt+∂x∂fΔXk+21∂x2∂2f(ΔXk)2+Rk.(4.1)
ここで ΔXk=Xtk+1−Xtk、偏微分は (tk,Xtk) で評価し、Rk は高次の剰余項です。
f(T,XT)−f(0,X0) は (4.1) の k=0,…,n−1 の和です。各項を見ていきます。
第1項と第2項。 ∑∂t∂fΔt は ∫0T∂t∂fdt に収束します。これは ∂f/∂t の連続性によるリーマン和の収束です。∑∂x∂fΔXk は ∫0T∂x∂fdXt に確率収束します。こちらは通常の積分ではなく、左端点で評価した和の極限として伊藤積分を定めたこと(第58回)による収束です。
第3項(核心)。 (ΔXk)2 を展開します。(2.1) より
(ΔXk)2=(μΔt+σΔWk)2=μ2(Δt)2+2μσΔtΔWk+σ2(ΔWk)2.
μ2(Δt)2 の和は O(n⋅(Δt)2)=O(Δt)→0 です。Δt の二乗が n 個あっても、合計は Δt のオーダーで消えます。
2μσΔtΔWk の和について。E[∣ΔWk∣]=O(Δt) なので、各項は O((Δt)3/2)、合計は O(Δt)→0 です。
σ2(ΔWk)2 の和が残ります。二次変分の結果(第57回)より
が L2 で成り立ちます。より正確には、(ΔWk)2 を Δt に置き換えても和の極限は変わりません。
k=0∑n−1σ(tk,Xtk)2(ΔWk)2→∫0Tσ2dt
重みを左端点 (tk,Xtk) で評価しているので、同じ置き換えにより
k=0∑n−121f′′(tk,Xtk)σ2(tk,Xtk)(ΔWk)2
の極限は ∫0T21f′′σ2dt になります。
剰余項(ここで f′′ の連続性が効きます)。 f は x について2回しか微分できないので、Rk を (ΔXk)3 のオーダーとは言えません。そこで平均値の形のテイラーの定理を使い、(ΔXk)2 の係数を Xtk と Xtk+1 の間の点 ξk で評価します(t 方向の差も同様に、∂f/∂t の連続性で扱えます)。すると剰余項の主要部は
Rk≈21(f′′(tk,ξk)−f′′(tk,Xtk))(ΔXk)2
となるので、和は
k∑Rk≲21kmaxf′′(tk,ξk)−f′′(tk,Xtk)×k∑(ΔXk)2
と抑えられます。X の経路は連続なので有界な範囲に収まり、そこで連続な f′′ は一様連続です。刻みを細かくすると ∣ξk−Xtk∣ の最大値が 0 に近づくので、最大値の因子は 0 に収束します。一方 ∑k(ΔXk)2 は ∫0Tσ2dt に収束して有界にとどまります。したがって剰余項の和は 0 に確率収束します。f′′ が不連続であれば最大値の因子が 0 に近づく保証が無く、この議論が崩れます。
以上を合わせると
f(T,XT)−f(0,X0)=∫0T∂t∂fdt+∫0T∂x∂fdXt+21∫0T∂x2∂2fσ2dt
が得られます。dXt=μdt+σdWt を代入して整理すれば THM-ITO2-1 の式になります。 ∎
THM-ITO2-2 の証明
f(x)=∣x∣ を考えます。f′(x)=sign(x)(x=0)ですが、f′′(x) は x=0 で存在しません。x=0 では f′′(x)=0 です。
形式的に THM-ITO2-1 を当てると、二階微分の項は 21⋅0⋅dt=0 となり
を得ます。しかしこれは正しくありません。右辺の伊藤積分の期待値は 0 ですが、E[∣WT∣]=2T/π=0 です。差は局所時間と呼ばれる項で、原点付近でブラウン運動が費やす時間を反映します。
f′′ が連続でないために、テイラー展開の二次の項が 21f′′σ2dt にまとまらず、余分な寄与が生じます。これが THM-ITO2-2 の主張です。 ∎
THM-ITO2-3 の証明
THM-ITO2-1 の結果から、Yt=f(t,Xt) は
の形に書けます。ここで
μ~σ~=∂t∂f+μ∂x∂f+2σ2∂x2∂2f,=σ∂x∂f.
μ~,σ~ は (t,Xt) から決まる適合過程です(Yt だけの関数とは限らないので、ここでの伊藤過程は第2節の注意どおり係数を適合過程に広げた意味です)。可積分条件も満たされます。f の偏微分は連続で X の経路も連続なので、それらを (t,Xt) で評価したものは [0,T] 上で有界です。その上界を M とすれば
∫0T∣μ~∣dt∫0Tσ~2dt≤M(T+∫0T∣μ∣dt+∫0Tσ2dt),≤M2∫0Tσ2dt
で、右辺は第2節の可積分条件により有限です。したがって Yt は伊藤過程の定義を満たします。
g∈C1,2 を Yt に施すと、同じ議論が適用できます。g(t,Yt) は新しいドリフト μ^ と拡散 σ^ を持つ伊藤過程になります。この操作は、関数の合成が C1,2 を保つ限り繰り返せます。 ∎
5. 反例 ― 二階微分できないと崩れる
CEX-ITO2-1: 絶対値関数に当てると食い違う
f(x)=∣x∣ に形式的に伊藤の補題を当てます。f′′(x)=0(x=0)なので、追加項は 0 になるはずです。つまり ∣WT∣=∫0Tsign(Wt)dWt が成り立つはずです。
しかし数値実験(50,000パス、10,000ステップ)では
| 量 |
値 |
| E[∣WT∣](実測) |
0.7970 |
| E[∫sign(W)dW](実測) |
-0.0008 |
| 差 |
0.7978 |
| 2/π(理論値) |
0.7979 |
左辺の期待値は理論通り 2/π≈0.7979 ですが、右辺の期待値はほぼ 0 です。差 0.7978 は局所時間の寄与であり、二階微分の連続性が無いために生じます。
CEX-ITO2-2: 普通の連鎖律では矛盾する
f(x)=x2 に普通の連鎖律(微積分学の連鎖律)を当てると d(Wt2)=2WtdWt です。両辺の期待値を取ると
E[WT2]=2E[∫0TWtdWt]=0.
伊藤積分の期待値は 0 だからです。しかし E[WT2]=T=1 です(シミュレーション値 1.0061)。1=0 なので矛盾します。
伊藤の補題を正しく適用すると d(Wt2)=2WtdWt+dt です。追加項 dt の積分が T を生み、矛盾を解消します。
CEX-ITO2-3: ドリフトを変えても追加項は同じ
Xt=μt+Wt(σ=1)に f(x)=x2 を当てます。追加項は 21⋅2⋅σ2dt=dt で、μ に依存しません。
| μ |
E[XT2](実測) |
追加項 σ2T |
| 0.0 |
1.0009 |
1.0 |
| 0.5 |
1.2598 |
1.0 |
| 2.0 |
5.0151 |
1.0 |
E[XT2] はドリフト μ によって変わりますが、追加項は常に σ2T=1.0 です。追加項は拡散係数 σ の二乗にのみ依存し、ドリフト μ には依存しません。
6. 数値例 ― x^2 で両辺を突き合わせる
f(x)=x2, Xt=Wt の場合に、伊藤の補題の左辺 WT2 と右辺 2∫0TWtdWt+T を数値的に突き合わせます。
| 刻み数 |
E[WT2] |
E[右辺] |
平均差 |
差の標準偏差 |
| 100 |
1.0041 |
1.0047 |
-0.000554 |
0.14098 |
| 1,000 |
1.0018 |
1.0018 |
-0.000076 |
0.044453 |
| 10,000 |
1.0061 |
1.0062 |
-0.000045 |
0.014166 |
刻み数を10倍にするごとに、差の標準偏差はおよそ 1/10 倍に減っています。平均差はいずれもほぼ 0 で、伊藤の補題が成立していることを確認できます。
両辺の期待値はいずれも T=1 に近く、理論値と一致しています。追加項 T を落とすと右辺の期待値が 0 になり、左辺の 1 と合わなくなります。
7. 次回へ ― 手を動かして練習する
今回は伊藤の補題の正確な主張と証明を示しました。適用条件は f∈C1,2 であること、つまり二階微分が連続であることです。この条件が破れると、追加の項が生じます。
次回 59(c) では、logSt, St2 など具体的な関数に伊藤の補題を実際に適用する練習をします。
次のマイルストーンまであと 19 本です。
よくある質問
第59回(a)と何が違うのですか
(a)は直感的な導出、(b)は正確な主張と適用条件です。使うときに条件を確認できるようにします。
C^{1,2} とは何ですか
時間について1回、空間について2回、連続に微分できるという意味です。
条件を満たさない関数は使えないのですか
そのままでは使えません。拡張した公式がありますが、本シリーズでは扱いません。
参考文献
- Itô K.、Stochastic Integral、Proceedings of the Imperial Academy、1944年、DOI 10.3792/pia/1195572786
- Øksendal B.、Stochastic Differential Equations、第6版、Springer、2003年
数値例は compute.py により float で計算。50,000パス、乱数シード 42 を固定。