第59回(c) 伊藤の補題を使う練習 ― log S と S^2 で手を動かす

第59回(c) 伊藤の補題を使う練習 ― log S と S^2 で手を動かす

位置: 第6部 第59回(c) / 前提: 第59回 / 数学編: M3、M4 / この回でできるようになること: 株価の対数や二乗の動きを、伊藤の補題で自分で計算できる

目次

0. 物語 ― 対数を取れば普通の微分でよいと考える

トレーディングデスクで、ジュニアのクオンツが株価モデルを組んでいます。年率リターン5%、ボラティリティ20%の株を1年間シミュレーションし、対数リターンの平均を出す仕事です。

「対数を取って微分すれば、株価の変化率をそのまま引っ張ってこられる」。大学の微分積分で習った通りに計算すると、対数リターンの平均は5%になるはずです。ところが5万本のシミュレーションを走らせると、平均はおよそ3%にしかなりません。2%も足りないのです。

隣のシニアクオンツが画面を覗き込んで、すぐに原因を指摘します。「株価にはランダムな揺れが入っている。揺れがある量の対数を取ると、普通の微分にはない追加の項が出る。その項がちょうどボラティリティの二乗の半分、つまり2%分だけドリフトを引き下げるんだ」。

追加の項は、ランダムな揺れの二乗が時間に比例して残ることから来ます。通常の微分では二次の項は無視できるほど小さいのですが、ブラウン運動を含む量では無視できません。対数関数は上に凸なので、揺れがあると平均が下がる方向に補正がかかります。これがドリフトから引かれる2%の正体です。

ボラティリティが20%なら2%のずれで済みますが、もし40%あれば引かれる量は8%になり、5%のリターンを上回ります。対数リターンの平均が負になるのです。追加の項を忘れると、ドリフトの大きさどころか符号すら間違えることになります。

この追加の項を正しく扱う道具が、前回導いた伊藤の補題です。今回は対数、二乗、積という3つの関数に補題を当てはめ、それぞれの追加項がどう効くかを手を動かして確認します。

1. 動機 ― 公式は使えて初めて意味がある

この回を読み終えると、株価の対数や二乗の動きを、伊藤の補題で自分で計算できます。

公式を導けることと使えることは別です。今回は、3つの具体的な関数に補題を当てはめ、結果を自分で再現できるようにします。

選ぶ関数は 対数、二乗、積 です。この3つは以降の回で繰り返し使う基本部品です。それぞれで「追加項を忘れるとどうなるか」を数値で確認し、通常の微分との違いを体に染み込ませます。

この記事で証明すること

  • THM-ITO3-1 幾何ブラウン運動の対数を取ると、ドリフトから を引いた定数ドリフトのブラウン運動になります。
  • THM-ITO3-2 ブラウン運動の二乗に伊藤の補題を適用すると が得られ、両辺の期待値が一致します。
  • THM-ITO3-3 2つの伊藤過程の積の微分には、通常の積の微分に加えて、拡散項の積による交差項が現れます。

2. 設定と仮定 ― 適用する関数を3つ選ぶ

第59回(b)の伊藤の補題をそのまま使います。適用条件を毎回確認します。

伊藤の補題(1次元): が を満たし、 が 級( について1回、 について2回連続微分可能)であるとき

ここで 、、 の規則を使っています。通常の微分と違うのは の項です。これが「追加項」です。

適用する3つの関数は

  1. (対数)— 幾何ブラウン運動に適用
  2. (二乗)— ブラウン運動に適用
  3. (積)— 2つの伊藤過程に適用

いずれも必要な回数の微分が存在するので、 の条件を満たします。

数値実験では乱数のシードを42に固定し、50000本の経路で検証します。

この節のまとめ: 伊藤の補題の追加項は です。3つの関数でこの項がどう効くかを順に見ます。

3. 主張 ― 対数、二乗、積の3つの形

定理 THM-ITO3-1(対数への適用) 幾何ブラウン運動 に対し

が成り立つ。すなわち は定数ドリフト と定数拡散 を持つブラウン運動である。

定理 THM-ITO3-2(二乗への適用) 標準ブラウン運動 に対し

が成り立つ。積分して期待値を取ると が得られる。

定理 THM-ITO3-3(積の公式) 2つの伊藤過程 、 の積について

が成り立つ。ここで である。第3項が交差項で、通常の積の微分にはない。

この節のまとめ: 対数では のドリフト修正、二乗では の追加項、積では の交差項が現れます。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― それぞれ微分を計算して当てはめる

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第3回「偏微分、全微分、多変数のテイラー展開」、数学編 第4回「連鎖律を徹底的に」へ。

THM-ITO3-1 の証明

とします。微分を計算します。

は で 級なので、 の条件を満たします。 は幾何ブラウン運動の性質から保証されます。

幾何ブラウン運動では 、 です。伊藤の補題に代入します。 は に陽に依存しないので です。

第1項に を代入します。

第2項(追加項)を計算します。 なので

合わせると

これを から まで積分すると

右辺は正規分布 に従います。 ∎

なぜ追加項が現れるのか。 通常の微分なら で終わりです。しかし はブラウン運動を含むので、二次の項 が の大きさで残ります。(対数は凹関数)なので追加項は負になり、ドリフトを引き下げます。

THM-ITO3-2 の証明

とします。、 です。 は 級なので条件を満たします。

は (ドリフトなし、拡散係数1)です。

通常の微分なら ですが、追加項 が加わります。 なので追加項は正です。

から まで積分すると

両辺の期待値を取ります。伊藤積分 はマルチンゲールなので期待値は0です。したがって

これはブラウン運動の分散が であるという既知の結果を、伊藤の補題から再現したものです。 ∎

注意。 (4.1) は二次変分 と同じ内容を別の角度から述べています。 はマルチンゲールです。

THM-ITO3-3 の証明

2次元の伊藤の補題を に適用します。、、、、 です。 は 級なので条件を満たします。

2次元の伊藤の補題(交差項を含む形)は

なので

交差項 を計算します。、 に対し、 の大きさで残る項だけを拾います。

ここで を使いました。 は2つのブラウン運動の相関係数です。

まとめると

通常の積の微分 に、交差項 が加わります。 ∎

交差項の意味。 2つの過程が正に相関していれば()、同時に上がる(下がる)傾向があるので、積は通常の微分が予測するよりも速く増えます。その分が交差項です。

特に (同じブラウン運動、)の場合、 となり、THM-ITO3-2 と一致します。

5. 反例 ― 追加項を忘れるとドリフトがずれる

CEX-ITO3-1: 対数のドリフトずれ

、 の幾何ブラウン運動で の平均を計算します。

  • 正しいドリフト(伊藤の補題):
  • 誤ったドリフト(追加項を忘れた場合):

シミュレーション(50000経路)の結果、 の平均は で、正しい理論値 に近く、誤った値 からは明確に離れています。ずれは です。

なら となり、 を超えてドリフトが負になります。追加項を無視するとドリフトの符号すら誤ります。

CEX-ITO3-2: 積の交差項を落とす

相関 の2つの標準ブラウン運動 の積について

交差項を落として「通常の積の微分」で計算すると、 となり、期待値を取ると になります。

シミュレーションの結果、 で、理論値 に近く、交差項を落とした からは大きく離れています。交差項の数値的な寄与は で、ほぼ に一致しています。

CEX-ITO3-3: 適用条件を満たさない関数

は で微分不可能なので、 の条件を満たしません。

機械的に ()と当てはめると追加項が消え、 となります。しかしこれは正しくありません。正しくは田中の公式

にローカルタイム が現れます。シミュレーションで を計算すると で、理論値 に近い値を示します。機械的適用では が欠落するため、 の挙動を正しく捕らえることができません。

この節のまとめ: 追加項を忘れるとドリフトが ずれ、交差項を落とすと期待値が合わなくなり、適用条件を確認しないと結果自体が誤ります。

6. 数値例 ― シミュレーションで両辺を突き合わせる

全ての数値はシード42、50000経路、10000ステップのモンテカルロシミュレーションで計算しています。

対数の検証: の統計量

理論値 シミュレーション
平均
分散

理論値 と に近い値が得られています。

二乗の検証: の期待値

理論値 シミュレーション

(4.1) の関係 の誤差(左辺右辺 の平均)は で、十分に小さい値です。

積の検証: ()

理論値 シミュレーション
交差項あり
交差項なし ―

交差項を落とすと理論値が になり、シミュレーション結果と合致しません。

この節のまとめ: 3つの適用全てで、伊藤の補題の結果がシミュレーションと整合し、追加項を落とした場合には合わなくなることを確認しました。

7. 次回へ ― なぜ指数の肩に負の項が出るのか

THM-ITO3-1 で を得ました。これを指数に戻すと

指数の肩に という負の項が現れます。次回(第60回)では、この式を幾何ブラウン運動の解として正式に導き、 がどこから来るのかを改めて見ます。

次のマイルストーンまであと 18 本です。

よくある質問

なぜ対数を取ることが多いのですか

ドリフトと拡散が定数になり、扱いやすくなるからです。分布も正規分布になります。

追加項はいつも半分ですか

二階微分に が掛かる形です。関数によって値は変わります。

練習はどのくらい必要ですか

この3つを自分で導ければ十分です。以降の回はこの組み合わせで進みます。

参考文献

  1. Øksendal B.、Stochastic Differential Equations、第6版、Springer、2003年
  2. Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance II ― Continuous-Time Models、Springer、2004年

数値例は compute.py によるモンテカルロシミュレーション(シード42)で検算済み。

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