第60回 幾何ブラウン運動 ― なぜ指数の肩にマイナス2分の1が出るのか

位置: 第6部 第60回 / 前提: 第21回、第59回 / 数学編: M4 / この回でできるようになること: 幾何ブラウン運動の株価の期待値と中央値を計算し、長期で両者が離れていく理由を説明できる
0. 物語 ― 長く持てば必ず増えるのか
毎年平均5%ずつ増えると聞けば、10年も持てば大きく殖えると期待するのが普通です。100万円を預けて、10年後には165万円になる計算です。
ところが、値動きにばらつきがある世界では、話が変わります。毎日の値上がり・値下がりの幅が大きいとしましょう。良い年には倍近く跳ね上がり、悪い年には半分近くまで沈みます。それでも「平均すると年5%」です。
この条件で1万人が同時に同じ投資を始めたとします。10年後に全員の残高を並べると、驚くべきことに約48%の人が元本割れしています。半分近くが損をしているのに、1万人の平均残高は164万円と、理論上の期待値にしっかり近い値を示しています。
からくりは、残高の分布が極端に右に偏っていることです。残高を小さい順に並べてちょうど真ん中に来る人でも約104万円で、元本をわずかに上回る程度です。平均の164万円には遠く及ばず、上位4分の1に入る人でようやく約195万円です。一方で、ごく一部の幸運な人が飛び抜けた金額を手にしています。一番大きな残高は4790万円を超えます。この少数の勝者が全体の平均を大きく押し上げているのです。
1万人の真ん中、つまり5000番目の人の残高は約104万円です。「平均では165万円」と「真ん中の人は104万円」の間には60万円もの開きがあります。値動きのばらつきが大きいほど、この開きは広がります。
この回で明らかにするのは、株価を表す数式の中に、この「平均と真ん中のずれ」を正確に記述する補正の項が自然に現れること、そしてその項を落とすと計算が合わなくなることです。
1. 動機 ― 株価の標準的なモデルを作る
この回を読み終えると、幾何ブラウン運動の株価の期待値と中央値を計算し、長期で両者が離れていく理由を説明できます。
株価は負にならない。しかも変動の大きさは、株価そのものに比例します。100 の株が 1 日で 1 動くなら、10000 の株は 100 動きます。この「比例的な変動」を数学で表す方法を見ます。
答えは幾何ブラウン運動です。ブラウン運動を指数の肩に乗せると、この 2 つの性質が同時に得られます。ところが、ただ乗せるだけでは式が狂います。指数の肩に
第59回で伊藤の補題を導きました。今回はそれを
この記事で証明すること
- THM-GBM-1 ドリフト率
と拡散率 が一定のとき、解は です。指数の肩にドリフトから を引いた項が現れます。 - THM-GBM-2 解の期待値は
であり、補正項は期待値には現れません。 - THM-GBM-3 中央値は
であり、期待値より小さくなります。この差が補正項の正体です。
2. 設定と仮定 ― 比例的な変化を仮定する
次の仮定を置きます。
- ドリフト率とボラティリティは定数:
と はいずれも定数です。 - 初期値は正:
。 - 配当と取引コストは無い: 保有中の収入やコストはゼロです。
- 数値実験では乱数のシードを固定する: 再現性のため、シード
を使います。
原資産の瞬間的な変動を比例的に書くと、次の確率微分方程式(SDE)になります。
この SDE の解を陽に求めることが、この記事の目標です。
3. 主張 ― 解の肩に補正項が現れる
定理 THM-GBM-1(解の形) SDE (2.1) の解は
である。
定理 THM-GBM-2(期待値)
の期待値は である。補正項
は期待値には現れない。
定理 THM-GBM-3(中央値との差)
の中央値は であり、
である限り である。
この 3 つの定理をまとめると、補正項の役割が見えます。解の肩には
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 対数に伊藤の補題を当てる
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第4回「連鎖律を徹底的に」へ。
THM-GBM-1 の証明
解の形を求めるために、
通常の微積分なら第2項はありません。伊藤の補題が通常の連鎖律と異なるのは、
各項を計算します。SDE (2.1) を
第1項:
第2項:
伊藤の計算規則(第59回)によれば、
(4.3) に
(4.2) と (4.4) を (4.1) に代入すると
両辺の指数を取ると
これが (3.1) です。補正項
THM-GBM-2 の証明
(3.1) の期待値を求めます。指数の中身を整理します。
前半は定数、後半は確率変数です。
正規分布の指数のモーメント母関数を使います。
(4.7) の期待値を取ると、定数部分は外に出せます。
指数の肩を整理すると、
これが (3.2) です。
THM-GBM-3 の証明
中央値を求めます。
これが (3.3) です。
期待値との差を示します。(3.2) と (3.3) の比を取ると
中央値は「半分のパスがこれより上、半分がこれより下」の水準です。期待値がこれより上にあるのは、対数正規分布が右に長い裾を持ち、一部の大きな値が平均を押し上げるからです。
5. 反例 ― 補正項を落とすと平均が合わない
CEX-GBM-1: 補正項を落とした式でシミュレーションする
「
補正項を落とした「誤った式」
でシミュレーションすると、平均はどうなるでしょうか。
| 理論値 | シミュレーション | |
|---|---|---|
| 正しい式の平均 | ||
| 誤った式の平均 |
誤った式のシミュレーション平均は
CEX-GBM-2: 期待値が増えるのに中央値が減る
「期待値が上がるなら中央値も同じだけ上がるはずだ」という理解を壊します。
- 期待値:
- 中央値:
ドリフトが正なので期待値は増えています。しかし中央値は初期値
時点ごとの中央値の推移を見ると、減り続けていることがわかります。
| 1 | 2 | 3 | 5 | 7 | 10 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 中央値 |
期待値が増えても、半分以上のパスは初期値を下回ります。「平均的に得をする」ことと「典型的に得をする」ことは、対数正規分布のもとでは別物です。
CEX-GBM-3: 長期保有すれば必ず増えるか
「ドリフトが正なら長期保有すれば必ず増える」という期待を検証します。
| 統計量 | 値 |
|---|---|
| 10 パーセンタイル | |
| 25 パーセンタイル | |
| 中央値(50) | |
| 平均 | |
| 75 パーセンタイル | |
| 90 パーセンタイル | |
| 99 パーセンタイル | |
| 最大値 | |
| 初期値割れの割合 |
10 年後、ほぼ半数(
99 パーセンタイルは
反例の要点をまとめます。補正項は計算間違いではなく、期待値を正しく保つ役割を果たしています。期待値と中央値の乖離は、ボラティリティが大きく時間が長いほど顕著になります。
6. 数値例 ― 期待値と中央値を並べる
理論値:
シミュレーション(
| 理論値 | シミュレーション | |
|---|---|---|
| 期待値 | ||
| 中央値 |
シミュレーションの平均と中央値は、いずれも理論値に近い値を取っています。
指数の肩の
7. 次回へ ― ドリフトと拡散が表すもの
今回、SDE
次回(第61回)では、SDE のドリフト項と拡散項が何を表しているのかを改めて整理します。ドリフトは平均的な変化率を、拡散はその周りの揺らぎの大きさを記述します。SDE の「読み方」を身につけることで、さまざまなモデルを見通しよく理解できるようになります。
次のマイルストーンまであと 17 本です。
よくある質問
なぜマイナス2分の1が出るのですか
対数を取ったときに伊藤の補題の追加項が出るからです。指数に戻すと肩に残ります。
期待値が増えるのに中央値が減ることがありますか
あります。ボラティリティが大きいと起きます。平均は一部の大きな値に引っ張られます。
この補正はどこで効いてきますか
後の回で扱うオプション価格の式の中で、2つの量の差として現れます。
参考文献
- Samuelson P. A.、Rational Theory of Warrant Pricing、Industrial Management Review、1965年
- Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance II ― Continuous-Time Models、Springer、2004年
数値例は compute.py によるシミュレーション(シード42固定)で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

