第45回(a) リスク中立確率はどこから来るのか ― 主観確率が消える計算

位置: 第5部 第45回(a) / 前提: 第43回(1期間2状態モデル)、第44回(複製ポートフォリオ) / 数学編: なし / この回でできるようになること: ディーラーの提示するオプション価格に、その人の相場観がどれだけ混ざっているかを見抜ける
0. 物語 ― 予想が当たる天才が損をする
ある株のことなら誰よりも詳しい、相場の天才がいるとします。今の株価は100円です。1年後には120円に上がるか、90円に下がるか、どちらかしか起こりません。お金を銀行に預けると、1年で5%の利息が付きます。
天才は「この株は7割の確率で上がる」と読んでいます。そして実際、その読みはよく当たります。天才はこう考えました。「1年後に株を100円で買える権利があれば、上がった世界では20円の得になり、下がった世界では何ももらえない。7割で20円なのだから、平均すれば14円。利息の分を割り引くと、今の値打ちは約13.3円だ」。天才はこの権利を、13.3円で買いました。
売ったのは、相場の予想をまったくしない人です。この人は権利を売った直後に、株を3分の2株だけ買い、足りない約57円を銀行から借ります。自分の財布から出ていくのは約9.5円だけです。
1年後、上がった世界では、持っている株は80円になり、借金は利息込みで60円なので、手元に残るのはちょうど20円です。これで天才に払う20円がまかなえます。下がった世界では、株は60円、借金も60円で、残りは0円です。天才に払うものもありません。
どちらの世界になっても、売った人の1年後の損得はゼロです。つまり最初に受け取った約13.3円と、自分で出した約9.5円の差、約3.8円は、上がっても下がっても売った人のものになります。
天才の予想が当たって株が上がっても、この3.8円は戻ってきません。天才が払った13.3円のうち、権利を作るのに必要だったのは9.5円だけで、残りの3.8円は「7割で上がる」という相場観への上乗せだったのです。
この回で証明するのは、この権利の値段は相場観と無関係にただ一つに決まり、そこに相場観を混ぜた人は、予想が当たっても外れても、混ぜた分を持っていかれる、ということです。
1. 動機 ― 「期待値を割り引く」は半分間違っている
この回を読み終えると、ディーラーの提示するオプション価格に、その人の相場観がどれだけ混ざっているかを見抜けます。
オプションの価格は「満期のペイオフの期待値を割り引いたもの」だ、という説明をよく見かけます。これは半分正しく、半分間違っています。間違っている半分が致命的で、その期待値をどの確率で取るのかが抜けています。
株が上がる確率を、あなたがどれだけ真剣に推定しても、その数字はオプション価格に一切現れません。今回はこれを証明します。ついでに、代わりに現れる「別の確率」がどこから来るのかも、代数計算だけで完全に導きます。
第44回で、コールオプションを株と安全資産で複製できることを見ました。今回はその複製コストの式を整理し直すだけです。新しい道具は何も要りません。要るのは、式を眺める角度を変えることだけです。
この記事で証明すること
- THM-RNM1-1 無裁定であることは、
という数値条件と同値です。 - THM-RNM1-2 無裁定のとき、割引後の株価を保つ確率
がただひとつ存在します。 - THM-RNM1-3 任意のペイオフの複製コストは
に等しく、主観確率 に依存しません。
2. 設定と仮定 ― 世界で一番簡単な市場を作る
第43回のモデルをそのまま使います。仮定を全部書き出します。どれが後で壊れるかを見るために、全部です。
- 時間:
(現在)と (満期)の1期間のみ。 - 状態: 満期に起こりうる世界は2つ、
。 - 原資産: 現在価格
。満期には または 。ただし 。 - 安全資産: 時刻0に1を預けると時刻1に
になる。 は確定した値。 - 主観確率: 上昇の確率は
、 。これは市場参加者が「そう思っている」確率です。 - 摩擦なし: 取引コスト、税、売買スプレッドはない。空売りができる。株も安全資産も任意の実数単位で売買できる。
ポートフォリオは
裁定とは、次を満たすポートフォリオのことです。
「タダかそれ以下で手に入り、損はせず、得することがある」。これが存在しないとき、市場は無裁定であると言います。第2回で述べた通り、本シリーズで仮定する公理はこれ一つです。
3. 主張 ― 3つの定理を正確に述べる
3つの定理を示します。ひとつ目は無裁定を数値条件に翻訳し、ふたつ目でリスク中立確率が生まれ、みっつ目で主観確率が消えます。
定理 THM-RNM1-1(無裁定の特徴づけ) 上のモデルが無裁定であることと、次は同値である。
定理 THM-RNM1-2(リスク中立確率の存在と一意性) モデルが無裁定であるとき、
とおくと
であり、 が成り立つ。さらに (3.1) を満たす
はこれ以外に存在しない。逆に、(3.1) を満たす が存在すれば、モデルは無裁定である。
(3.1) が言っているのは、「
定理 THM-RNM1-3(複製コストのリスク中立表現) モデルが無裁定であるとき、任意のペイオフ
に対し、 を複製するポートフォリオ が一意に存在し、その時刻0のコストは に等しい。この値は
に依存しない。
冒頭の「期待値を割り引く」という説明は、期待値を
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 不等式の操作だけで裁定を作る
この節は読まなくても記事は完結します。
THM-RNM1-1 の証明
(⇐)
任意のポートフォリオ
のとき。 なので 。裁定の条件「全ての状態で 」に反する。 のとき。 に負の が掛かるので 。同じく反する。 のとき。 で、 が両状態で成り立つ。 と両立するのは のみで、そのとき となり「ある状態で 」を満たさない。
どの場合も裁定にならないので、無裁定です。
(⇒) 無裁定ならば
対偶を示します。
裁定です。 ∎
この証明で使ったのは不等式の操作だけです。確率
THM-RNM1-2 の証明
(3.1) の両辺に
これは
存在・一意性・逆向きが全て一度に出ました。 ∎
THM-RNM1-3 の証明
ペイオフ
辺々引いて
これを第1式に戻して
2つの未知数に対し2本の独立な1次方程式なので、解は一意です。これで複製ポートフォリオの存在と一意性が出ました。
複製コストを計算します。
ここで分子を
これが (3.2) です。右辺に
価格が複製コストに一致することを補足しておきます。もしオプションが複製コストより高い価格
なぜ主観確率が消えるのか
証明を眺めると理由が見えます。複製の条件は各状態で等式が成り立つことでした。「上がった世界でもぴったり」「下がった世界でもぴったり」。これは状態ごとの条件であって、状態の起こりやすさを平均する操作はどこにも含まれていません。平均を取らないのだから、平均の重みである
一方
5. 反例 ― 仮定を外すと何が壊れるか
CEX-RNM1-1: 主観確率で価格付けをする相手を狩る
「価格 = 主観的期待値の割引」という誤解が、単に不正確なだけでなく損失を生むことを示します。
第6節の数値(
あるディーラーが、株の上昇確率を
をコールの「適正価格」として提示したとします。
こちらは次のように動きます。
- ディーラーにコールを1単位、13.3333 で売る。
- 複製ポートフォリオ
株を買い、 すなわち 57.1429 を借りる。コストは 。 - 差額
を時刻0に受け取る。
満期には、コールの支払いと複製ポートフォリオの価値が両状態で一致します(上昇:
ディーラーの
CEX-RNM1-2: 無裁定の数値条件を壊す
THM-RNM1-1 の条件が破れた市場を作ります。
株を1単位空売りして 100 を安全資産に置く(
元手ゼロで、どちらの状態でも正の利益。裁定です。株のどんな上昇シナリオでも安全資産に負けるなら、株を持つ理由がない。市場が存在しません。
このとき
6. 数値例 ― S=100、u=1.2、d=0.9 で確かめる
| 上昇 |
下落 |
|
|---|---|---|
| 120 | 90 | |
| コールのペイオフ |
20 | 0 |
無裁定の確認:
リスク中立確率:
検算:
複製ポートフォリオ((4.1), (4.2)):
複製コスト:
リスク中立表現で検算((3.2)):
一致します。厳密には
この計算のどこにも
7. 次回へ ― 状態が3つになると何が起きるか
今回の結論は「2状態なら
では状態を3つにしたらどうなるか。株と安全資産の2つの道具で3つの状態を複製することは、一般にはできません。そのとき (3.1) を満たす
次のマイルストーンまであと 10 本です。
よくある質問
リスク中立確率は実際に上がる確率のことですか
違います。価格を計算するための重みで、現実に上がる確率とは別物です。現実の確率はこの計算のどこにも出てきません。
なぜ主観確率が価格に出てこないのですか
価格が複製のコストで決まるからです。作るのにいくらかかるかは、上がる見込みをどう思うかに左右されません。
上昇確率をどう見積もっても価格が同じなら、予想は無意味なのですか
価格付けには使いません。持ち続けたときの損益の見通しには効きます。役割が違います。
参考文献
- Cox J. C.、Ross S. A. and Rubinstein M.、Option Pricing ― A Simplified Approach、Journal of Financial Economics、1979年、DOI 10.1016/0304-405X(79)90015-1
- Pliska S. R.、Introduction to Mathematical Finance ― Discrete Time Models、Blackwell、1997年
数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

