位置: 第7部 第70回 / 前提: 第68回、第69回 / 数学編: M5 / この回でできるようになること: ブラック・ショールズ式の N(d1) と N(d2) がそれぞれ何を表しているかを説明できる
目次
0. 物語 ― N(d2) は現実の行使確率ではない
前回、ブラック・ショールズの公式を導きました。今回はその結果を、別の面から眺めてみます。「式が出せた」ことと「式の中身がわかった」ことは、実は別の話です。
公式の中には、ある数が2つ並んでいます。どちらも0から1の間の値を取るので、確率のように見えます。たとえば原資産価格100、行使価格100、金利5パーセント、ボラティリティ20パーセント、満期1年で計算すると、片方は約0.56、もう片方は約0.64です。しかしこの2つは、まったく別の意味を持っています。
まず、0.56のほうです。これは「リスク中立測度のもとでの行使確率」です。ここで大事なのは、これが現実に行使される確率ではないという点です。もし原資産が年率20パーセントで成長すると信じている投資家がいたら、その人にとっての行使確率は約0.82です。年率2パーセントしか成長しないと思っている人なら、ちょうど0.50です。しかしどちらの投資家も、この公式に自分の予想を入れることはできません。公式が使うのは金利の5パーセントだけで、投資家の相場観はどこにも現れないのです。
では0.64のほうは何かというと、これもまた確率なのですが、先ほどとは違う物差しで測った確率です。原資産そのものを基準にした世界での行使確率であり、同時にコール価格が原資産価格の変動にどれだけ敏感かを表す数でもあります。
公式は「受け取る側の現在価値」から「支払う側の現在価値」を引いた形をしています。この構造がわかれば、式を丸暗記しなくても、何が何を意味しているかを読めるようになります。
1. 動機 ― 式の中身を1つずつ読み解く
この回を読み終えると、ブラック・ショールズ式の N(d1) と N(d2) がそれぞれ何を表しているかを説明できます。
ブラック・ショールズのコール価格式は
C0=S0N(d1)−Ke−rTN(d2)
と書かれます。第69回で、リスク中立測度のもとでの期待値としてこの式を導きました。しかし式を導けたことと、式の意味がわかったことは違います。
N(d1) と N(d2) はどちらも標準正規分布の分布関数の値ですから、0 から 1 の間の数です。「確率っぽい」ことは見えます。では、何の確率なのか。2つの N は同じ役割を果たしているのか、それとも別々の意味を持っているのか。
今回はこの式を分解し、各部品が何を言っているのかを正確に読み取ります。
この記事で証明すること
- THM-BSF-1 N(d2) はリスク中立測度 Q のもとで満期にコールが行使される確率に等しいことを示します。
- THM-BSF-2 N(d1) はコールの価格を原資産価格で偏微分した値に等しく、同時に原資産を数量単位とする測度のもとでの行使確率でもあることを示します。
- THM-BSF-3 式全体は「行使された場合に受け取る原資産の現在価値」から「支払う行使価格の現在価値」を引いた構造になっていることを示します。
2. 設定と仮定 ― 4つの入力と1つの出力
ブラック・ショールズ式は4つの入力と1つの出力を持ちます。仮定を書き出します。
- 第67回の仮定: 原資産価格 St はリスク中立測度 Q のもとで幾何ブラウン運動に従います。
- 配当なし: 原資産は配当を支払いません。
- 金利一定: 無リスク金利 r は満期まで一定です。
- ボラティリティ一定: σ>0 は満期まで一定です。
- ヨーロピアン型: 満期 T でのみ行使可能です。
- 数値計算: 標準正規分布の分布関数 N(⋅) を数値的に評価します。
入力は (S0,K,r,σ,T) の4つ(S0 と K は別々に入りますが比率 S0/K が本質的です)。出力はコール価格 C0 です。
d1d2=σTln(S0/K)+(r+21σ2)T,=d1−σT(1)
C0=S0N(d1)−Ke−rTN(d2)(2)
d1 と d2 の差は σT です。この差がどこから来るかは証明の中で明らかになります。
この節のまとめ: 式は4つの入力から d1,d2 を経由してコール価格を算出します。d1 と d2 の差は σT です。
3. 主張 ― 2つの N はそれぞれ別の意味を持つ
定理 THM-BSF-1(N(d2) の意味)
リスク中立測度 Q のもとで、満期に ST>K となる確率は N(d2) に等しい。すなわち
定理 THM-BSF-2(N(d1) の意味)
コールのデルタ(価格の原資産価格に対する偏微分)は N(d1) に等しい。
さらに N(d1) は、原資産を数量単位とする測度 QS(dQS/dQ=ST/(S0erT))のもとでの行使確率にも等しい。
定理 THM-BSF-3(式の構造)
コール価格は次のように読める。
C0=(A)S0N(d1)−(B)Ke−rTN(d2)(A) は行使された場合に受け取る原資産の現在価値であり、(B) は行使された場合に支払う行使価格の現在価値である。
2つの N は別の測度のもとでの行使確率です。N(d2) はリスク中立測度 Q での確率、N(d1) は原資産単位の測度 QS での確率です。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 期待値の分解から意味を取り出す
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第5回「積分の技法とガウス積分」へ。
THM-BSF-1 の証明
リスク中立測度 Q のもとで ST の対数は
lnST=lnS0+(r−21σ2)T+σTZ(3)
と書けます。ここで Z は Q のもとで標準正規分布に従います。行使条件 ST>K を Z の条件に翻訳します。両辺の対数を取って整理すると
ST>K⟺lnST>lnK⟺Z>−σTln(S0/K)+(r−21σ2)T.
右辺を見ると、(1) の d2 の定義から
d2=σTln(S0/K)+(r−21σ2)T
ですから、行使条件は Z>−d2 と書けます。Z が標準正規分布に従うので
Q(ST>K)=Q(Z>−d2)=1−N(−d2)=N(d2).
最後の等号は標準正規分布の対称性 1−N(−x)=N(x) によります。 ∎
THM-BSF-3 の証明
コール価格はリスク中立期待値として
と書けます。指示関数 1{ST>K} を使って展開します。
C0=e−rTEQ[(ST−K)1{ST>K}]=e−rTEQ[ST1{ST>K}]−Ke−rTEQ[1{ST>K}].(4)(4)
Ke−rTEQ[1{ST>K}]=Ke−rTQ(ST>K)=Ke−rTN(d2).
これが (B) の部分です。「行使確率 N(d2) を掛けた行使価格を割り引いたもの」、つまり行使された場合に支払う行使価格の現在価値です。
(4) の第1項を計算します。(3) を代入すると
ST=S0exp((r−21σ2)T+σTZ).
ST>K が Z>−d2 と同値であることは示しました。積分を実行します。
e−rTEQ[ST1{Z>−d2}]=S0∫−d2∞exp(−21σ2T+σTz)φ(z)dz.(5)
φ(z)=(2π)−1/2exp(−z2/2) ですから、指数部分をまとめます。
−21σ2T+σTz−21z2=−21(z−σT)2.
w=z−σT と変数変換します。z=−d2 のとき w=−d2−σT=−d1 です。したがって
(5)=S0∫−d1∞φ(w)dw=S0N(d1).
これが (A) の部分です。変数変換で σT だけずれたことが、d1 と d2 の差の正体です。
以上をまとめると
C0=S0N(d1)−Ke−rTN(d2)
であり、(A) は行使された場合に受け取る原資産の現在価値、(B) は支払う行使価格の現在価値です。 ∎
THM-BSF-2 の証明
偏微分がデルタに一致すること。 (2) を S0 で偏微分します。d1,d2 はどちらも S0 に依存するので、連鎖律を使います。
∂S0∂C0=N(d1)+S0φ(d1)∂S0∂d1−Ke−rTφ(d2)∂S0∂d2.(6)
d2=d1−σT より ∂d2/∂S0=∂d1/∂S0 です。したがって (6) の第2項と第3項の差は
∂S0∂d1(S0φ(d1)−Ke−rTφ(d2)).
この括弧の中がゼロであることを示します。密度関数の定義から
φ(d2)φ(d1)=exp(−21d12+21d22).
d12−d22=(d1−d2)(d1+d2)=σT(d1+d2) です。d1+d2=2d1−σT ですが、直接 d1,d2 の定義を使う方が見通しがよいです。
d12−d22=σT(d1+d2)=σTσT2ln(S0/K)+2rT=2ln(S0/K)+2rT.
よって
φ(d2)φ(d1)=exp(−ln(S0/K)−rT)=S0Ke−rT.
これは S0φ(d1)=Ke−rTφ(d2) を意味しますから、括弧の中はゼロです。したがって
測度 QS のもとでの行使確率であること。 (5) の計算で
e−rTEQ[ST1{ST>K}]=S0N(d1)
を示しました。両辺を S0 で割ると
N(d1)=EQ[S0erTST1{ST>K}].
L=ST/(S0erT) は EQ[L]=1 を満たす正の確率変数ですから、dQS=LdQ で新しい測度 QS を定義できます。すると
N(d1)=EQS[1{ST>K}]=QS(ST>K).
N(d1) は、原資産を基準単位とする測度のもとでの行使確率です。 ∎
5. 反例 ― N(d2) は現実の確率ではない
CEX-BSF-1: 現実のドリフトを変えてもN(d2)は変わらない
N(d2) はリスク中立測度 Q のもとでの行使確率であって、現実の測度 P のもとでの行使確率ではありません。
現実の測度では、原資産のドリフトは μ(r とは限りません)です。現実の行使確率は、(3) の r を μ に置き換えた
P(ST>K)=N(σTln(S0/K)+(μ−21σ2)T)
です。S0=100,K=100,σ=0.20,T=1 で、μ を変えて数値を並べます。
| μ |
現実の行使確率 |
| 2% |
0.5000 |
| 5% |
0.5596 |
| 10% |
0.6554 |
| 15% |
0.7422 |
| 20% |
0.8159 |
一方、N(d2)=0.5596 は μ に依存しません。μ=5% のときだけ現実の確率と一致するのは、そのとき μ=r だからです。ドリフトが 20% だと信じている投資家も、2% だと信じている投資家も、同じ N(d2)=0.5596 を使って同じコール価格 10.4506 を得ます。
N(d2) を「行使される確率」と呼ぶときは、必ず「リスク中立測度のもとで」という限定が必要です。
CEX-BSF-2: N(d1)は行使確率ではない
N(d1)=0.6368 は N(d2)=0.5596 より大きく、差は 0.0772 です。N(d1) が Q のもとでの行使確率ではありません。Q での行使確率は N(d2) であり、同じ事象に対して2つの値は取れないからです。
N(d1) は別の測度 QS のもとでの行使確率です。d1 と d2 の差 σT=0.20 は、測度変換の際の補正項から来ています。N(d1) を素朴に「確率」と読むと、どの測度の確率なのかが曖昧になります。
CEX-BSF-3: ボラティリティと価格の関係
「ボラティリティを上げればコール価格は必ず上がる」は正しいですが、上がり方は一様ではありません。S0=100,K=100,r=5%,T=1 で σ を変えます。
| σ |
コール価格 |
前回からの増分 |
| 10% |
6.8050 |
— |
| 20% |
10.4506 |
3.6456 |
| 30% |
14.2313 |
3.7807 |
| 40% |
18.0230 |
3.7917 |
| 50% |
21.7926 |
3.7697 |
| 60% |
25.5232 |
3.7306 |
価格はボラティリティについて単調に増加しています。これはコールの損失が 0 で下限が切れる一方、利益には上限がないためです。ばらつきが大きいほど、損失限定・利益無限の非対称性が有利に働きます。
増分を見ると、σ=40% までは増分がわずかに増え(3.6456 から 3.7917 へ)、その先ではわずかに縮小しています(σ=60% で 3.7306)。ボラティリティの上昇が価格に与える効果は一定ではなく、σ が大きい範囲では逓減していきます。
この節のまとめ: N(d2) は現実の確率ではなくリスク中立測度のもとでの確率です。N(d1) はさらに別の測度での確率であり、素朴な確率解釈は誤解を招きます。
6. 数値例 ― 各部品の値を並べて確かめる
S0=100,K=100,r=5%,σ=20%,T=1 での各部品を並べます。
| 部品 |
値 |
| d1 |
0.3500 |
| d2 |
0.1500 |
| d1−d2 |
σT=0.2000 |
| N(d1) |
0.6368 |
| N(d2) |
0.5596 |
| e−rT |
0.9512 |
| S0N(d1)(受け取る側) |
63.6831 |
| Ke−rTN(d2)(支払う側) |
53.2325 |
| コール価格 C0 |
10.4506 |
式の構造を確認します。63.6831−53.2325=10.4506 です。行使された場合に受け取る原資産の現在価値 63.6831 から、支払う行使価格の現在価値 53.2325 を引いた形になっています。
N(d1) がコール価格の S0 に対する偏微分に一致することも数値で確認します。S0 を微小量だけ動かして差分を取ると 0.6368 となり、N(d1)=0.6368 と一致します。
この節のまとめ: 式の2つの項は「受け取る側」と「支払う側」に対応し、それぞれ異なる測度のもとでの行使確率を含んでいます。
7. 次回へ ― 配当があるとどこが変わるか
今回は配当なしの仮定のもとで式を読みました。次回(第71回)では、配当がある原資産に式を拡張します。式の4つの入力のうち、どこが変わり、どこが変わらないかを見ます。
次のマイルストーンまであと 7 本です。
よくある質問
d1とd2の違いは何ですか
差はボラティリティと時間の平方根の積です。この差が幾何ブラウン運動の補正項から来ています。
式を覚える必要がありますか
構造を覚えれば十分です。受け取るものの現在価値から払うものの現在価値を引いた形です。
ボラティリティが上がるとなぜ価格が上がるのですか
損失が限定される一方で利益は限定されないからです。ばらつきが大きいほど有利になります。
参考文献
- Black F. and Scholes M.、The Pricing of Options and Corporate Liabilities、Journal of Political Economy、1973年、DOI 10.1086/260062
- Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
数値例は compute.py により scipy.stats.norm で計算し、有限差分との照合で検算済み。