第56回 ブラウン運動の経路はなぜ微分できないのか

位置: 第6部 第56回 / 前提: 第55回 / 数学編: M20 / この回でできるようになること: ブラウン運動の経路の傾きを求める計算が、刻みを細かくするほど発散することを数値で確かめることができる
0. 物語 ― 数値微分で傾きを出そうとする
前回、ブラウン運動の経路は連続である――つまりつながった曲線である――ことを確認しました。この結果は、計算の現場からも見ることができます。
つながった曲線があるとき、ある時刻での傾きを数値で求めたいなら、前後の値の差を取って時間幅で割ればよいはずです。刻みを細かくするほど精度は上がる。これは数値計算の教科書に出てくる基本的な方法です。
ところが、ブラウン運動の経路でこれをやると、奇妙なことが起きます。ある時刻での傾きを求めようとして、刻みを10分の1にすると答えは約マイナス1.5。100分の1にすると約1.1で、符号が逆転します。1000分の1では約マイナス23。1万分の1ではマイナス181。10万分の1では243です。
細かくするほど答えが落ち着くどころか、符号がころころ変わり、値の大きさは桁違いに膨らんでいきます。1万本の経路でばらつきの大きさを測っても、刻みを100倍細かくするたびにばらつきは10倍に広がります。
これは計算の失敗ではありません。ブラウン運動の経路には、そもそも傾きが存在しないのです。つながっているのに、どこまで拡大しても直線に見える部分がない。この回では、傾きを表す量のばらつきが際限なく広がることを証明し、数値でも確かめます。
1. 動機 ― なぜ普通の微積分が使えないのか
この回を読み終えると、ブラウン運動の経路の傾きを求める計算が、刻みを細かくするほど発散することを数値で確かめることができます。
第55回でブラウン運動
今回はこれを証明します。なぜ差分商が収束しないのかを分散の計算で示し、数値でも確認します。さらに「滑らかな関数で近似すればよい」という発想がなぜ危険かを、二次変分が潰れることで見ます。
この記事で証明すること
- THM-ND2-1 差分商の分散は刻みに反比例して発散します。したがって差分商は確率収束しません。
- THM-ND2-3 ブラウン運動は連続ですが、どの時点でも微分可能ではありません。連続性と微分可能性は別の性質です。
2. 設定と仮定 ― 差分商を考える
ブラウン運動の時点
と書きます。
普通の関数
| 差分商 | 誤差 | |
|---|---|---|
誤差は
ブラウン運動ではこのようなことは起きません。仮定を整理します。
- ブラウン運動の定義は第55回のものを使います。
- 微分可能性は各時点での差分商の極限の存在として扱います。
- 数値実験では乱数のシードを42に固定します。
この節のまとめです。差分商とは傾きの近似であり、極限が存在すれば微分可能です。滑らかな関数では収束しますが、ブラウン運動では収束しません。
3. 主張 ― 差分商は収束しない
定理 THM-ND2-1(差分商の発散) 固定した時点
での差分商 は、 のとき分散が に比例して発散する。したがって確率収束しない。
定理 THM-ND2-2(至る所微分不可能) 確率1で、ブラウン運動の標本路はどの時点でも微分可能でない。
定理 THM-ND2-3(連続だが滑らかでない) 連続性と微分可能性は別の性質であり、ブラウン運動は前者を満たし後者を満たさない。
THM-ND2-2 の完全な証明は本シリーズの範囲を超えるため、結果として引用します(Karatzas and Shreve, 1991, Theorem 2.9.1)。THM-ND2-1 と THM-ND2-3 は証明します。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 分散が刻みに反比例して発散することを示す
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第20回「有界変動とリーマン・スティルチェス積分」へ。
THM-ND2-1 の証明
ブラウン運動の増分の性質を使います。第55回の定義から、
差分商は
期待値は、分子の期待値が0であるため
分散は、定数
これから確率収束しないことを導きます。分散が発散するだけでは収束しないとは言い切れないので、分布そのものを使います。
です。つまり
もし
の右辺は
標準偏差は
THM-ND2-3 の証明
連続性: 第55回の定義で、ブラウン運動の標本路は確率1で連続と仮定しています。これは定義の一部です。
微分不可能性: 時点
THM-ND2-2 の主張は、「全ての時点で同時に」微分不可能であるというさらに強い結果です。THM-ND2-1 は各時点ごとの主張ですが、全時点の和集合を取る議論には測度論の道具が必要です。結果だけ引用すると、確率1で、どの時点
連続だが微分できない関数は、ブラウン運動だけではありません。決定論的な例として、ワイエルシュトラスの関数
5. 反例 ― 滑らかに近似すると大事な性質が消える
CEX-ND2-1: 連続なら微分できる、という直感
滑らかな関数
| 滑らかな関数の差分商 | BM の差分商 | |
|---|---|---|
左の列は
CEX-ND2-2: 数値微分で近似できる、という期待
差分商の標準偏差を、1万本の標本路で測定しました。
| 経験的 SD | 理論的 SD ( |
比 | |
|---|---|---|---|
比はすべて1に近く、理論どおり
CEX-ND2-3: 滑らかな近似で二次変分が消える
「ブラウン運動は激しすぎるから、移動平均で滑らかにして扱えばよい」という発想を検証します。
| 窓幅 |
二次変分 |
|---|---|
| 10 | 0.114356 |
| 50 | 0.024346 |
| 100 | 0.012487 |
| 500 | 0.001932 |
二次変分が急速に0に潰れます。滑らかな関数の二次変分は0です(これは数学編 M20 で述べた事実です)。移動平均をかけた瞬間に経路は滑らかになり、二次変分という「ブラウン運動らしさ」が消えます。
二次変分は、次回(第57回)で扱う中心的な量です。伊藤の補題で余分な項が現れる原因が二次変分であり、これが0になった経路で理論を組み立てると、その項が消えてしまいます。滑らかな近似は見た目はきれいになりますが、後の理論で必要な性質を壊します。
この節のまとめです。連続性は微分可能性を意味しません。差分商の標準偏差は刻みの細かさとともに発散し、滑らかに近似すると二次変分が0に潰れて理論に必要な性質が失われます。
6. 数値例 ― 刻みを細かくして差分商を追う
1本の標本路で
| 刻み |
差分商 |
|---|---|
符号が入れ替わり、大きさは桁違いに膨らんでいます。滑らかな関数の差分商が
理論的な標準偏差と比較します。
この節のまとめです。差分商は刻みを細かくしても収束せず、
7. 次回へ ― 微分できない代わりに何が残るのか
微分ができないなら、ブラウン運動で積分を定義するにはどうすればよいでしょうか。
答えの鍵は二次変分にあります。次回(第57回)では、ブラウン運動の二次変分
次のマイルストーンまであと 23 本です。
よくある質問
微分できないのに使えるのですか
微分の代わりになる道具を作ります。それが伊藤積分と伊藤の補題です。
連続なのに微分できないとはどういうことですか
つながってはいるが、どこまで拡大しても直線に見えない、ということです。
現実の株価も微分できないのですか
モデルとしてそう置いている、という話です。現実は離散的な値動きです。
参考文献
- Karatzas I. and Shreve S. E.、Brownian Motion and Stochastic Calculus、第2版、Springer、1991年
- Mörters P. and Peres Y.、Brownian Motion、Cambridge University Press、2010年
数値例は compute.py により乱数シード42で計算。理論値との整合を assert で確認済み。

