第55回 ブラウン運動の定義 ― 4つの条件だけで決まる過程

位置: 第6部 第55回 / 前提: 第25回、第54回 / 数学編: M18 / この回でできるようになること: ある乱数の列がブラウン運動のモデルとして使えるかを、4つの条件で点検できる
0. 物語 ― 時間と値に同じ倍率を掛ける誤り
これまでの道のりを振り返ります。離散のモデルでは、時刻が飛び飛びでした。株価は毎期「上がるか下がるか」の二択で動き、確率の計算も足し算と掛け算で済みました。ところが現実の市場では、価格はもっと細かい刻みで動いています。離散から連続へ進むには、時間の隙間を埋める「ランダムな揺れ」の土台が必要です。
その土台にはどんな性質が要るでしょうか。まず出発点はゼロです。次に、ある区間での動きと別の区間での動きが互いに影響しないこと。それから、動きの幅が時間の長さだけで決まること。最後に、経路が途切れずつながっていること。たった4つの条件ですが、これだけで揺れの正体が完全に決まります。
4つの条件が揃うと、面白い性質が出てきます。時間の軸を4倍に引き伸ばしたとき、値の軸をどう拡大すれば同じ揺れに見えるでしょうか。直感的には「時間も値も同じ倍率」と考えたくなります。しかし10万本のシミュレーションで試すと、時間を4倍にして値を4分の1にした過程のばらつきは約0.25になり、本来あるべき1.0から大きくずれてしまいます。正しくは、値を2分の1にしなければなりません。時間を4倍にしたとき、値は2倍にしか広がらない。この非対称な関係が、連続時間の揺れの本質です。
この回では、4つの条件だけでこの土台の分布がただひとつに決まることを証明し、時間と値の正しい拡大の比率がどこから出てくるのかを導きます。
1. 動機 ― 連続時間の土台を1つ用意する
この回を読み終えると、ある乱数の列がブラウン運動のモデルとして使えるかを、4つの条件で点検できます。
離散モデルでは、時刻が
その土台がブラウン運動です。ブラウン運動は、4つの条件だけで定義される確率過程で、連続時間の金融モデルのほぼ全てがこの過程の上に構築されます。今回はその4つの条件を正確に述べ、条件だけから分布が一意に決まることを証明し、さらにスケーリング則とマルチンゲール性という2つの重要な性質を導きます。
道具は第54回までの確率論と、正規分布の基本的な性質だけです。新しい公理は加えません。4つの条件を書き下し、その帰結を丁寧に計算するだけです。
この記事で証明すること
- THM-BM-1 ブラウン運動の4つの条件(初期値0、独立増分、正規増分、連続な標本路)を満たす過程の有限次元分布は一意に決まります。
- THM-BM-2 ブラウン運動を時間方向に
倍、値方向に で割ると、再びブラウン運動になります(スケーリング則)。 - THM-BM-3 ブラウン運動は自身の生成するフィルトレーションに関してマルチンゲールです。さらに
もマルチンゲールになります。
2. 設定と仮定 ― 4つの条件を並べる
確率空間
- 時間:
の連続時間。 - 増分の独立性: 互いに重ならない時間区間について要求します。すなわち
のとき、 と は独立です。 - 増分の分布: 任意の
に対し、増分 は平均0、分散 の正規分布に従います。 - 標本路の連続性: 確率1で、写像
は連続関数です。 - 数値実験では乱数のシードを固定します。
これらの条件を定義として採用します。ブラウン運動が実際に存在すること(このような過程が構成できること)の証明は数学編 M20 に送ります。ここでは4条件を満たす過程の性質を調べます。
これら4つの条件のうち、どれか1つでも外せばブラウン運動にならないことを、後の反例の節で具体的に確認します。
3. 主張 ― 条件だけで分布が決まる
4つの条件を正確に定理として述べます。
定義・定理 THM-BM-1(ブラウン運動の定義と有限次元分布の一意性) 確率過程
が次の4条件を満たすとき、標準ブラウン運動と呼ぶ。 (i)
。 (ii) 任意の
と に対し、増分 は互いに独立である。 (iii) 任意の
に対し、 である。 (iv) 確率1で
は 上の連続関数である。 この4条件を満たす過程の有限次元分布、すなわち任意の
に対する の同時分布は、一意に決まる。
定理 THM-BM-2(スケーリング則)
を標準ブラウン運動、 を定数とする。 と定めると、
も標準ブラウン運動である。
定理 THM-BM-3(マルチンゲール性)
を標準ブラウン運動、 をその生成するフィルトレーションとする。 (a)
は -マルチンゲールである。 (b)
も -マルチンゲールである。
THM-BM-2 の「
THM-BM-3(b) は「
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 増分の分布から有限次元分布を出す
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第18回「収束の4概念」へ。
THM-BM-1 の証明
任意の時刻
ステップ1: 増分への分解。
ここで
ステップ2: 増分の分布の確定。 条件 (iii) より各増分の分布が決まります。
増分の分布は平均0で、分散は時間幅
ステップ3: 独立性の適用。 条件 (ii) より、
ステップ4: 同時分布の構成。 独立な正規確率変数の同時分布は、各成分の分布の積で完全に決まります。
です。独立であることから、同時密度が各成分の密度の積になります。
ステップ5: もとの変数への変換。
この変換行列は下三角行列で、対角成分が全て1なので行列式は1です。したがって
ここで
この密度関数は4つの条件だけから一意に定まります。条件 (i)–(iii) が増分の分布と独立性を完全に指定しているので、他の選択肢はありません。条件 (iv) の連続性は有限次元分布には直接関わりませんが、過程の経路の性質を規定するために不可欠です。
以上により、4条件を満たす過程の有限次元分布は (1.4) で一意に決まります。 ∎
特に
THM-BM-2 の証明
(i) 初期値。
(ii) 独立増分。
(
(iii) 増分の分布。
です。
です。分散が
(iv) 連続性。
4条件すべてが成り立つので、
スケーリング則は直感的には「ブラウン運動を拡大しても同じものが見える」という自己相似性を表しています。ただし拡大の仕方に注意が必要です。時間を
THM-BM-3 の証明
(a)
条件付き期待値を取ります。
条件付き期待値の線形性を使って和を分けます。
第1項について。
第2項について。増分
最後の等号は条件 (iii) より
(3.2) と (3.3) を合わせて
これはマルチンゲールの定義そのものです。
(b)
展開の意図は、
第1項。
第2項。
ここで (3.3) を使いました。
第3項。
最後の等号は、
(3.5) にまとめると
両辺から
すなわち
これは
(a) は「ブラウン運動に偏りがない」ことを、(b) は「ブラウン運動の2乗の成長速度がちょうど
5. 反例 ― 条件を1つ外すと別物になる
CEX-BM-1: 増分に相関を持たせる
独立増分の条件 (ii) を外します。時間を
で定めます。ここで
もしこの過程がブラウン運動なら、
| 相関あり分散 | BM なら | |
|---|---|---|
| 0.25 | 0.4208 | 0.25 |
| 0.50 | 0.8439 | 0.50 |
| 0.75 | 1.2687 | 0.75 |
| 1.00 | 1.6984 | 1.00 |
分散がブラウン運動の約 1.69 倍に膨れています。理論的には
CEX-BM-2: 標本路にジャンプを入れる
連続性の条件 (iv) を外します。正規増分にポアソンジャンプ(強度
5万本のシミュレーションで終端値
| シミュレーション | BM なら | |
|---|---|---|
| 1.0008 | 0 | |
| 1.5001 | 1.0 |
平均が0から大きくずれ(ジャンプが正方向にバイアスを生む)、分散も1.5に膨れています。ジャンプが1回入るだけで、ブラウン運動の性質は完全に壊れます。連続性の条件は「経路が跳ばない」ことを保証し、ブラウン運動の穏やかな変動を特徴づけています。
CEX-BM-3: スケーリングの倍率を間違える
THM-BM-2 では値を
| 正しい |
誤り |
理論値(正しい) | 理論値(誤り) | |
|---|---|---|---|---|
| 0.25 | 0.2506 | 0.0627 | 0.25 | 0.0625 |
| 0.50 | 0.5016 | 0.1254 | 0.50 | 0.125 |
| 0.75 | 0.7528 | 0.1882 | 0.75 | 0.1875 |
| 1.00 | 1.0014 | 0.2503 | 1.00 | 0.25 |
正しいスケーリングでは分散が
計算で確認します。
スケーリング則では、時間と空間の伸縮の比率が
6. 数値例 ― ランダムウォークを細かくして近づける
ブラウン運動の直感を得るために、離散的なランダムウォークから出発します。各ステップで
を作ります。
| 分割数 |
刻み |
平均 | 分散 | 理論値 |
|---|---|---|---|---|
| 10 | 0.1 | 0.9963 | 1.0 | |
| 100 | 0.01 | 1.0034 | 1.0 | |
| 1,000 | 0.001 | 0.0006 | 0.9948 | 1.0 |
| 10,000 | 0.0001 | 0.0064 | 1.0102 | 1.0 |
途中の時刻
マルチンゲール性の数値確認
THM-BM-3 の数値確認として、
| 0.10 | 0.0003 | |
| 0.25 | 0.0018 | 0.0001 |
| 0.50 | 0.0010 | 0.0021 |
| 0.75 | 0.0011 | 0.0052 |
| 1.00 | 0.0007 | 0.0053 |
スケーリング則の数値確認
| 理論値 | |||
|---|---|---|---|
| 0.25 | 0.2495 | 0.2506 | 0.25 |
| 0.50 | 0.5003 | 0.5016 | 0.50 |
| 0.75 | 0.7489 | 0.7528 | 0.75 |
| 1.00 | 1.0025 | 1.0014 | 1.00 |
2つの列がほぼ一致しています。
7. 次回へ ― なぜ微分できないのか
今回はブラウン運動を4つの条件で定義し、その帰結としてスケーリング則とマルチンゲール性を証明しました。ブラウン運動の経路は連続ですが、実は非常に「荒い」動きをしています。
次回(第56回)では、ブラウン運動の経路がなぜ微分できないのかを考えます。連続でありながら微分不可能であるとは、グラフにどこでも接線が引けないということです。この性質が、後の連続時間金融モデルに深い影響を与えます。
次のマイルストーンまであと 24 本です。
よくある質問
ブラウン運動は実在しますか
物理現象の名前が由来ですが、ここでは4条件を満たす数学的な対象として扱います。
なぜ正規分布なのですか
独立な増分の和として作ると、中心極限定理により自然に現れます。
株価のモデルとして使えますか
そのままでは負になります。指数を取った幾何ブラウン運動を第60回で使います。
参考文献
- Karatzas I. and Shreve S. E.、Brownian Motion and Stochastic Calculus、第2版、Springer、1991年
- Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance II ― Continuous-Time Models、Springer、2004年
数値例は compute.py により乱数シード固定(seed=42)で検算済み。

