第6回 記号アレルギーを消す ― このシリーズで使う記号の地図

第6回 記号アレルギーを消す ― このシリーズで使う記号の地図

位置: 第1部 第6回 / 前提: 第1〜5回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 教科書で見慣れない記号に出会っても、このシリーズの記号に読み替えることができる

目次

0. 物語 ― 同じ文字が別の意味で使われる

スーパーの棚に「お酢」と書かれた瓶が並んでいるとします。料理用の穀物酢もあれば、掃除用のクエン酸溶液もあります。ラベルに「酢」としか書いていなければ、間違えて掃除用を鍋に入れてしまうかもしれません。名前が同じでも中身が違う、というのは台所だけの話ではありません。

金融数学の教科書にも、まったく同じことが起きています。たとえばアルファベットの「ディー」という文字は、ある教科書では「将来のお金を今の価値に直す掛け率」として使われ、別の教科書では「債券の平均的な回収期間」として使われています。どちらも金利の話に出てくるので、同じページに並ぶことすらあります。

実際に数字を入れてみると、怖さがよく分かります。年利5パーセント、満期2年で計算すると、掛け率のほうは約0.907です。一方、額面100、年1回利払い5パーセントの2年債の平均回収期間は約1.95です。どちらも同じ文字で書かれていたら、式の途中で0.907なのか1.95なのか判断がつきません。計算を間違えても、どこで間違えたか見つけられないのです。

問題の根は単純です。ひとつの文字にふたつの意味を持たせていることです。掛け率のほうには引数を付けて書き、平均回収期間のほうには添字を付けて書く。それだけで混同は消えます。

このシリーズでは、最初に記号をすべて決めて、最後まで変えません。ひとつの記号にはひとつの意味だけを割り当てます。この回は、その記号の一覧表です。先に進んで記号が分からなくなったら、いつでもここに戻ってきてください。

1. 動機 ― 数式が読めないのは記号が原因のことが多い

この回を読み終えると、教科書で見慣れない記号に出会っても、このシリーズの記号に読み替えることができます。

金融数学の教科書を開いたとき、最初に壁になるのは数式の難しさではありません。記号の意味が分からないことです。 と書いてあるのが割引係数なのかデュレーションなのか、 がコール価格なのかコンベキシティなのか。文脈で判断しろと言われても、文脈を理解する前に記号で止まってしまえば先に進めません。

教科書ごとに記号が違うのも混乱の原因です。ブラウン運動を と書く本もあれば と書く本もあります。同じ著者でも章によって記号を使い回すことがあります。

このシリーズでは、記号を最初に全部決めて、最後まで変えない方針を採ります。この記事はその記号の一覧です。全部を暗記する必要はありません。読み進めて「この記号は何だったか」と思ったときに、ここに戻ってくるための辞書です。

この記事では、記号を3つの群に分けた一覧表を示し、衝突しやすい記号の書き分けルールを説明し、他の教科書との読み替え表を付けます。

2. 設定と仮定 ― 記号をどう決めるか

記号を決めるにあたって、次の方針を守っています。

  • この回で挙げる記号は、シリーズ全体の記法ファイル(notation.md)と完全に一致させます。 記事で使う記号と記法ファイルがずれることはありません。
  • 未定義の記号は載せません。 後の回で導入する記号は、その回番号を添えて予告にとどめます。
  • 記号の意味は1つに固定します。 文脈によって同じ記号が別の意味になることはしません。同じ文字を2つの概念に使いたくなったら、片方の書き方を変えます。

3つ目の方針が最も重要です。1つの文字に複数の意味を持たせることが、記号アレルギーの最大の原因だからです。後ほど具体的にどの文字が衝突するかを見ます。

この方針に基づいて、記号を時間と金利、資産と価格、確率の3つの群に分けて整理します。

3. 記号の地図

時間と金利

記号 意味 備考
時刻 が現在
満期
無リスク金利 離散1期間モデルでは 、連続時間では で使います。両方を1本の記事で混ぜません
割引係数 離散: 、連続:
債券の最終利回り 年1回複利が既定です。連続複利を使う回では明示します

資産と価格

記号 意味 備考
原資産価格
二項モデルの上昇率・下落率
行使価格
コール・プット価格 プットの と主観確率 は字体で区別します
一般のペイオフ(確率変数) 二項モデルなら
ポートフォリオ価値
株の保有量 ギリシャ文字のデルタです
安全資産の保有額 借入は負の値で表します
先渡・先物価格
時点 のキャッシュフロー 債券の回で使います
マコーレー/修正デュレーション 裸の は使いません。 は割引係数に予約済みです
コンベキシティ はコール価格に予約済みのため使いません
ガンマ 価格の についての二階偏微分です

確率

記号 意味 備考
標本空間 二項モデルなら
, フィルトレーション 後の回(第43回以降)で導入します
主観確率(現実の測度)
リスク中立確率 第45回以降で使います
主観的な上昇確率
リスク中立的な上昇確率
期待値 測度を省略したときは で取ります
標準ブラウン運動 は使いません。 は安全資産に予約済みです
ドリフト、ボラティリティ 年率です
標準正規分布の分布関数 は使いません

まだ登場していない概念の記号(, , など)は、ここでは名前と記号だけ載せておきます。中身はそれぞれの回で定義します。

この一覧は、シリーズを読み進める中で辞書として使ってください。

4. なぜこの記号を選んだか

一覧表の中で、いくつかの文字は意識的に衝突を避ける書き方をしています。その理由を3件説明します。

割引係数とデュレーション

金融の教科書では という文字が2つの意味で使われています。

1つ目は割引係数です。年利 で 年後のキャッシュフローを現在価値に直すときの掛け率で、離散複利なら です。

2つ目はデュレーションです。債券のキャッシュフローの加重平均満期で、金利感応度を測る指標です。

どちらも と書く慣行がありますが、同じ式に割引係数とデュレーションが出てくることがあります。このシリーズでは衝突を避けるため、割引係数は引数付きの 、デュレーションは添字付きの (マコーレー)、(修正)と書きます。裸の は使いません。

コール価格とコンベキシティ

も2つの意味で使われます。

1つ目はコール価格 です。2つ目はコンベキシティで、債券価格の利回りに対する二階微分を正規化した指標です。

コール価格は金融数学の全編にわたって頻出するため、 に予約します。コンベキシティは と書きます。他の教科書で がコンベキシティとして出てきたら、このシリーズの に読み替えてください。

内積と二次変分

という記号にも衝突があります。

1つ目は 空間の内積 です。2つ目は二次変分で、ブラウン運動の経路のばらつきを測る量です。教科書によっては二次変分を と書きます(Shreve の教科書では )が、このシリーズでは内積に予約し、二次変分は角括弧 で書きます。

3件とも、原則は同じです。1つの記号に1つの意味を守るために、衝突しそうな方の書き方を変えています。

5. よくある取り違え

CEX-NM-1: 同じ文字がいつも同じ意味とは限らない

が割引係数とデュレーションの両方に使われる慣行を見ました。ここでは数値で衝突の怖さを示します。

年利 、満期 年で計算します。

  • 割引係数:
  • マコーレーデュレーション: 額面 100、年1回クーポン 5% の2年債(パー発行)のデュレーションは

もし裸の で書いていたら、 と が同じ文字で共存することになります。式の中でどちらの なのか判断できず、計算を間違える原因になります。 と を書き分けていれば、混同は起きません。

CEX-NM-2: 教科書ごとの記号の違いを無視してはいけない

がコール価格とコンベキシティの両方に使われる例を見ました。Hull の教科書ではコンベキシティを と書いています。このシリーズではコンベキシティを と書くことで衝突を避けています。

他の教科書を読むときは、次の読み替え表を参考にしてください。

概念 本シリーズ Hull Shreve
ブラウン運動
正規分布の分布関数 (本シリーズでは不採用)
安全資産の保有額 ―(明示しないことが多い) (文脈による)
コンベキシティ ―(債券を扱わない)
リスク中立確率(上昇)
主観確率(上昇) ―(明示しないことが多い)
二次変分 ―(記号を明示しない)

特に注意すべきは、Hull の教科書でリスク中立確率を と書いている点です。本シリーズでは は主観確率、 がリスク中立確率です。そのまま持ち込むと意味が逆転します。

教科書を読み替えるときは、記号だけでなく何を表しているかを確認してから式を追ってください。

6. 数値例 ― 記号だけで同じ計算を3通りに書いてみる

記号の約束を決めたので、実際に同じ計算を記号を変えて書いてみます。年利 、満期 年のとき、額面 100 の現在価値を求めます。

書き方1: 定義をそのまま書く

と が何を指すか分かっていれば読めますが、割引の操作が式の形に埋もれています。

書き方2: 割引係数を使う

ここで です。

「100 に割引係数を掛ける」という操作が、記号のおかげで一目で読めます。割引係数を と書いていれば、 と混同する心配もありません。

書き方3: キャッシュフローと割引係数の組で書く

年1回クーポン 5% の2年債なら、キャッシュフローは 、 です。債券価格は

で表せます。、 を代入すると、債券価格は 100(パー発行の検算)になります。

3通りとも同じ対象を扱っていますが、記号の選び方で読みやすさが変わります。このシリーズでは書き方2の 記法を標準として使います。

7. 次回へ ― 確定利付きの世界を固める

次回(第7回)からは第2部に入り、割引率とディスカウントファクターを正面から扱います。今回の記号表は、この先ずっと参照することになります。新しい記号が出てきたときはこの記事を更新しますので、安心して読み進めてください。

次のマイルストーンまであと 10 本です。

よくある質問

記号を全部覚える必要がありますか

ありません。読むときに戻ってこられれば十分です。この回は辞書として使ってください。

他の本と記号が違うのはなぜですか

記号は業界で統一されていません。同じ文字が別の意味で使われることもあるので、このシリーズでは衝突しないように決め直しています。

後から記号が増えることはありますか

あります。増えたときはこの回に追記します。新しい記号を断りなく使うことはしません。

参考文献

  • Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
  • Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance II ― Continuous-Time Models、Springer、2004年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

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