第2回 無裁定というたった一つの公理 ― ただ乗りが無いという前提だけで価格が決まる

第2回 無裁定というたった一つの公理 ― ただ乗りが無いという前提だけで価格が決まる

位置: 第1部 第2回 / 前提: 第1回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 同じ支払いを生む2つの商品に価格差があるとき、元手なしで利益を確定させる取引を組み立てることができる

目次

0. 物語 ― 手数料があると一物一価が崩れる

同じ投資信託が二つの証券会社で違う値段になっていたら、安い方で買って高い方で売れば差額がそのまま利益になります。100で売っている商品と102で売っている商品があれば、安い方を買い、高い方を売る。将来の受け取りは同じ商品ですから完全に相殺できて、手元に2だけ残ります。元手はゼロ、どの状態になっても損はしない。これが「裁定」と呼ばれる取引です。

こんなただ乗りが残っていたら、誰もがこの取引に殺到して、価格差はあっという間に消えてしまいます。だから「ただ乗りが存在しない」と仮定するだけで、同じ将来の受け取りを生む二つの商品は同じ値段でなければならない、という結論が出ます。一物一価です。

ところが現実の市場には手数料があります。売買のたびに片道0.5パーセント、往復で1パーセントの手数料がかかるとしましょう。先ほどの例で101の商品を売ると、手取りは手数料を引いて約100.5です。100の商品を買うと、手数料を足して約100.5の支払いです。差し引きはマイナス0.005。利益を手数料が食い尽くして、むしろ損になります。

計算すると、手数料込みで裁定が成り立たない価格の範囲は約99から約101まで、幅にして約2です。この帯の中では価格差があっても儲けが出ません。一物一価は「ぴったり同じ値段」から「帯」に緩むのです。

この回では、ただ乗りが無いというたったひとつの前提から、一物一価を含む三つの法則を証明し、前提が崩れたとき法則がどう緩むかを数値で確かめます。

1. 動機 ― ただ乗りが無い、という一行から始める

この回を読み終えると、同じ支払いを生む2つの商品に価格差があるとき、元手なしで利益を確定させる取引を組み立てることができます。

金融の理論には、仮定がたくさん出てきます。効率的市場、合理的な投資家、正規分布、連続時間……。そのどれよりも根本にある公理がひとつだけあります。

裁定機会が存在しない。

裁定とは「元手ゼロで損をする可能性がなく、しかも得をする可能性がある取引」のことです。ただ乗りです。無裁定とは、そういうただ乗りが市場に無い、という前提です。

この一行を認めるだけで、驚くほど多くの結論が出ます。同じキャッシュフローを生む2つの商品は同じ価格になる。より大きなキャッシュフローを生む商品はより高い価格になる。キャッシュフローの足し算は価格の足し算に対応する。今回はこの3つを証明します。

逆に、この一行を支える仮定が現実で崩れると何が起きるかも見ます。手数料や空売り規制があると、無裁定の帰結はどう緩むのか。数値で確かめます。

この節のまとめ: 本シリーズが唯一の公理として採用する「無裁定」の意味と、そこから何が導けるかの見通しを示しました。

この記事で証明すること

  • THM-NA-1(一物一価) 同じキャッシュフローを生む2つの商品の価格が異なれば裁定が構成でき、無裁定市場では価格が一致します。
  • THM-NA-2(優劣の保存) 商品 A のキャッシュフローがどの状態でも商品 B 以上であれば、無裁定市場では A の価格は B の価格以上です。
  • THM-NA-3(価格の線形性) キャッシュフローの和で作られた商品の価格は、それぞれの価格の和に等しくなります。定数倍についても同様です。

2. 設定と仮定 ― どんな市場を考えるか

結論を正確に導くために、ここで市場の仮定を全部書き出します。後の節でどの仮定が壊れると何が起きるかを見るので、番号を付けておきます。

  • (A1) 取引コスト、税、売買の値幅は無い。
  • (A2) 空売りができ、任意の実数単位で売買できる。
  • (A3) 借入と貸出は同一の金利で、いくらでもできる。
  • (A4) 自分の売買が価格を動かさない。
  • (A5) 取引は即座に成立し、相手の信用リスクは無い。

これらの仮定のもとで、裁定を次のように定義します。

裁定とは、次の3つの条件を同時に満たす取引のことです。

  1. 時刻0で支払う金額がゼロ以下(元手がゼロか、むしろお金が入る)。
  2. 満期にどの状態が起きても、損失が出ない。
  3. 少なくともひとつの状態で、正の利益が得られる。

市場にこのような取引が存在しないとき、その市場は無裁定であるといいます。

注意すべき点は、裁定の定義に「どの状態がどのくらいの頻度で起きるか」は一切含まれていないことです。使うのは「どの状態が起こりうるか」だけです。

この節のまとめ: 摩擦の無い理想的な市場を仮定し、裁定と無裁定の定義を述べました。

3. 主張 ― 無裁定から出る3つの帰結

ここから3つの定理を正確に述べます。どれも「もし無裁定ならば、価格にこの性質がある」という形の主張です。

定理 THM-NA-1(一物一価) 商品 A と商品 B が、満期にどの状態でも同じキャッシュフローを生むとする。市場が無裁定であるならば、 である。

定理 THM-NA-2(優劣の保存) 満期にどの状態でも商品 A のキャッシュフローが商品 B のキャッシュフロー以上であるとする。市場が無裁定であるならば、 である。

定理 THM-NA-3(価格の線形性) 商品 Z のキャッシュフローが、商品 X と商品 Y のキャッシュフローの和に等しいとする。市場が無裁定であるならば、 である。さらに、定数 に対してキャッシュフローが 倍の商品の価格は である。

THM-NA-1 は「同じものには同じ値段が付く」、THM-NA-2 は「良いものには高い値段が付く」、THM-NA-3 は「部品の値段を足せば全体の値段になる」と読めます。当たり前に聞こえますが、ここで大事なのは「当たり前だから正しい」ではなく「無裁定という公理一つから論理的に導ける」ということです。

この節のまとめ: 無裁定から従う3つの帰結を、定理として正確に述べました。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 価格差があれば必ず儲けが作れることを見る

この節は読まなくても記事は完結します。

THM-NA-1(一物一価)の証明

対偶を示します。 ならば裁定が存在することを示せばよいです。

一般性を失わず とします(逆なら A と B を入れ替えます)。

裁定の構成: 割安な A を買い、割高な B を売ります。

  • 時刻0: A を1単位買い、B を1単位売ります。支払い額は 、つまり差額 を受け取ります。
  • 満期: A と B のキャッシュフローは仮定により全ての状態で等しいので、A から得るキャッシュフローで B の支払い義務をぴったり相殺できます。損益はゼロです。

これは裁定の3条件を全て満たします。

  1. 時刻0の支出は 。元手を出すどころか受け取っています。
  2. 満期の損益は全ての状態でゼロ。損失はありません。
  3. 時刻0に の正の利益があります。

対偶が示されたので、無裁定ならば です。

ここで仮定 (A2) が効いていることに注意してください。B を売るには空売りが必要です。もし空売りができなければ、この裁定は構成できません(反例 CEX-NA-2 で詳しく見ます)。 ∎

THM-NA-2(優劣の保存)の証明

対偶を示します。 ならば裁定が存在することを示します。

裁定の構成: A を買い、B を売ります。

  • 時刻0: 支出は 。差額 を受け取ります。
  • 満期: A のキャッシュフローを 、B のキャッシュフローを と書くと、受取は です。仮定により全ての状態で ですから、 です。損失は出ません。

裁定の3条件を確認します。

  1. 時刻0の支出は 。元手を出していません。
  2. 満期の損益は全ての状態で 。非負です。
  3. 時刻0に の正の利益が確定しています。

対偶が示されたので、無裁定ならば です。

この証明でも仮定 (A2) を使っています。割高な B を空売りしています。 ∎

THM-NA-3(価格の線形性)の証明

ならば裁定が存在することを示します。2つの場合に分けます。

場合1:

Z を1単位売り、X を1単位買い、Y を1単位買います。

  • 時刻0: 受取は です。
  • 満期: Z のキャッシュフローは に等しいので、X と Y から得るキャッシュフローで Z の支払い義務をぴったり相殺します。損益はゼロです。

裁定の条件を満たします。時刻0に正の利益、満期に損失なしです。

場合2:

場合1の逆をやります。Z を1単位買い、X を1単位売り、Y を1単位売ります。

  • 時刻0: 受取は です。
  • 満期: X と Y の支払い義務は Z のキャッシュフローで相殺します。損益はゼロです。

同様に裁定です。

どちらの場合も裁定になるので、無裁定ならば です。

定数倍について: キャッシュフローが に等しい商品 W の価格が と異なるとします。

の場合を示します。 ならば、W を 単位売り、X を 単位買います。時刻0に を受け取り、満期に相殺します。仮定 (A2) により は任意の実数でよいので、整数単位でなくても構いません。 ならば逆をやります。 の場合は符号を入れ替えれば同じ議論が成り立ちます。

ここで仮定 (A1) と (A3) も効いています。取引コストがゼロだから相殺が完全であり、借入と貸出が同一金利だから差額の運用に利鞘が生じません。 ∎

3つの証明に共通するパターンを確認します。どの証明も同じ構造です。

  1. 価格が「あるべき関係」から外れていると仮定する。
  2. 割高な方を売り、割安な方を買う。
  3. 満期にキャッシュフローが相殺する。
  4. 時刻0に残った差額がそのまま確定利益になる。

「割高な方を売れる」のは仮定 (A2)(空売り可能)のおかげで、「相殺が完全」なのは仮定 (A1)(手数料ゼロ)と (A3)(金利が同一)のおかげです。仮定が崩れると何が起きるかを次の節で見ます。

5. 反例 ― 手数料と空売り規制で公理は緩む

CEX-NA-1: 取引コストがあると一物一価は「帯」になる

仮定 (A1) を外し、往復の手数料を 1% とします。買いに片道 0.5%、売りに片道 0.5% がかかる設定です。

商品 A の価格を とします。同じキャッシュフローを生む商品 B の価格が のとき、裁定を試みます。

「B を売り A を買う」裁定

  • B を売った手取りは です。
  • A を買うコストは です。
  • 利益は です。これが正でなければ裁定になりません。

「A を売り B を買う」裁定

  • A を売った手取りは です。
  • B を買うコストは です。
  • 利益は です。これが正でなければ裁定になりません。

両方の裁定が成立しない条件、つまり裁定が消える の範囲は

です。計算すると

になります。帯の幅は約 です。

たとえば の場合、B を売り A を買う裁定を試みると

となり、手数料で利益が消えて裁定は成立しません。

手数料がゼロなら の1点に縛られていた価格が、手数料が入ると幅を持つ帯の中を自由に動けるようになります。一物一価は等式から「帯」に緩むのです。

この節のまとめ: 手数料があると、価格差があっても裁定にならない範囲(帯)が生まれます。

CEX-NA-2: 空売り禁止で一物一価が片側だけ崩れる

仮定 (A2) のうち「空売りができる」を外します。

商品 A の価格を 、同じキャッシュフローを生む商品 B の価格を とします。手数料はゼロです。

空売りが可能であれば、割高な B を売り割安な A を買うことで の確定利益が得られます。これが THM-NA-1 の証明の手順でした。

しかし空売りが禁止されている場合、B を保有していなければ B を売れません。「割高な B を売る」という操作ができないので、この裁定は構成できません。

逆向きはどうでしょうか。A を売り B を買うと を支出するので、損をする方向です。裁定にはなりません。

つまり、空売り禁止は割高な側を売る操作だけをブロックします。割安な側を買う操作には制約がかからないので、割安な A を買う力は働きますが、A を買うだけでは確定利益は作れません。確定利益を作るには割高な側を売る必要があり、そこが封じられています。ただし、B をすでに保有している投資家なら、空売りではない通常の売りで B を で売って A を で買い直せます。将来の受け取りは変わらずに が手元に残るので、価格差を縮める力はこうした保有者からしか働きません。保有者がいなければ、一物一価は「割高な側が割高なまま」という一方向にだけ崩れ、 の価格差が残り続けえます。この向きは A と B のどちらの名前かではなく、どちらが割高かで決まります。

この節のまとめ: 空売り禁止は裁定の片側だけを封じるので、割高な方向にだけ価格差が残ります。

CEX-NA-3: 借入金利と貸出金利の差で線形性が崩れる

仮定 (A3) を外します。借入金利を 7%、貸出金利を 5% とします。

商品 X の価格を 、商品 Y の価格を とします。キャッシュフローの和に等しい商品 Z の「公正価格」は、金利が同一であれば のはずです。

ここで Z を売り X + Y を買う裁定を考えます。X と Y の購入資金 は借入で調達し、Z の売却代金 は貸出に回します。満期にキャッシュフローは相殺するので、資金の損益だけが残ります。

この裁定が成立するには が必要で、つまり

です。

逆に X + Y を売り Z を買う裁定では、Z の購入資金 を借入し、X + Y の売却代金 を貸出に回します。

この裁定が成立するには が必要です。

したがって、裁定が起きない の範囲は

です。帯の幅は約 です。

金利が同一であればこの帯は1点 に潰れ、線形性が成り立ちます。借入金利と貸出金利に差がある(スプレッドがある)と、帯が広がり、 であっても裁定にならない領域が生まれます。

この節のまとめ: 借入と貸出の金利差は、価格の線形性を帯状に緩めます。

6. 数値例 ― 価格差 2 から確定利益を取り出す

3つの定理と3つの反例を、具体的な数値で確かめます。

一物一価の数値例

同じキャッシュフローを生む商品 A と商品 B があり、、 です。

裁定の手順

ステップ 操作 キャッシュフロー
1 B を1単位売る
2 A を1単位買う
3 差額を受け取る
満期 A の受取で B の支払いを相殺

時刻0に を受け取り、満期の損益はゼロです。確定利益は です。

この利益はどの状態が起きても変わりません。「株が上がるか下がるか」に一切依存しない、無リスクの利益です。

優劣の保存の数値例

商品 A はどの状態でもキャッシュフロー 、商品 B はどの状態でもキャッシュフロー です。A の方が常に大きいので、無裁定であれば のはずです。

ところが , だとします。 で、優劣の保存に反しています。

裁定の構成: A を買い()、B を売り()ます。

  • 時刻0: を受け取ります。
  • 満期: を受け取ります。

時刻0に 、満期にさらに の利益です。元手ゼロでどの状態でも正の利益が出ます。

価格の線形性の数値例

商品 X の価格 、商品 Y の価格 。キャッシュフローが X + Y に等しい商品 Z の公正価格は です。

ところが だとします。

裁定の構成: Z を売り()、X を買い()、Y を買い()ます。

  • 時刻0: を受け取ります。
  • 満期: Z の支払い義務を X + Y の受取で相殺します。損益はゼロです。

確定利益は です。

手数料で裁定が消える範囲

片道 0.5%(往復 1%)の手数料があると、 に対して裁定が起きない の範囲は から です。帯の幅は約 です。

のとき、B を売り A を買う操作の正味は

です。手数料負けして裁定になりません。

空売り禁止で残る価格差

, 。空売りが可能なら の裁定利益が取れます。空売り禁止のもとでは、B を売れないので裁定が成立しません。割高な B の価格は に引き寄せられることなく、 の差が残り続けます。

金利差で線形性が崩れる幅

借入 7%、貸出 5% のもとで、 に対して裁定が起きない の範囲は から です。帯の幅は約 です。金利が同一であれば帯は1点 に潰れます。

この節のまとめ: 3つの定理の数値例で裁定の構成を確認し、3つの反例で仮定が崩れたときの帯の幅を計算しました。

7. 次回へ ― 株も債券も保険も同じ形に書き直す

今回は「ただ乗りが無い」という一つの公理から、一物一価、優劣の保存、価格の線形性という3つの帰結を導きました。しかしこの議論では、商品のキャッシュフローを漠然と「同じ」「以上」「和」とだけ言っていて、具体的にどう書くかには踏み込みませんでした。

次回は、株も債券も保険も同じ形式で記述できる「キャッシュフロー」という共通言語を導入します。無裁定の公理はその共通言語の上で初めて切れ味を発揮します。

この節のまとめ: 次回、キャッシュフローの統一的な記法を導入し、無裁定の公理を具体的に使える形にします。

次のマイルストーンまであと 14 本です。

よくある質問

無裁定は現実に成り立っていますか

厳密には成り立ちません。ただし、ずれても手数料で消える程度には保たれています。理論はその範囲を教えてくれます。

なぜ確率を使わないのですか

この回の主張は、どの状態が起きても損をしない、という形で書けるからです。確率の出番は後の回です。

裁定は本当に儲かるのですか

理屈のうえでは確実に儲かります。だからこそ見つかった瞬間に消えます。消えた後の価格が理論価格です。

参考文献

  1. Pliska S. R.、Introduction to Mathematical Finance ― Discrete Time Models、Blackwell、1997年
  2. Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

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