第1回 金融工学は何を計算する学問なのか ― 予想ではなく価格を決める

第1回 金融工学は何を計算する学問なのか ― 予想ではなく価格を決める

位置: 第1部 第1回 / 前提: なし / 数学編: なし / この回でできるようになること: 金融工学が相場の予想ではなく価格の整合性を計算する学問であることを、人に説明できる

目次

0. 物語 ― 数学が得意なら相場に勝てるのか

「先輩、数学科を出たなら株で儲かるんですか」。配属初日、新人はそう尋ねました。

先輩は笑って首を振りました。「残念だけど、来月どの銘柄が上がるかは、この部署では計算しない。そもそも計算できない」。

新人は驚きます。「じゃあ何を計算しているんですか」。

「たとえば、コインを投げて表なら1万円もらえる権利があるとする。この権利にいくらの値段を付けるか、という問題だ」。先輩はホワイトボードに簡単な図を描きました。「表が出る確率を3割と思う人もいれば、7割と思う人もいる。3割なら3千円、7割なら7千円と値段を付けたくなるだろう。でも、株と借入を組み合わせてこの権利とまったく同じ受け取りを作ると、材料費はどちらの場合も約3333円で変わらない」。

新人は首をかしげます。「確率が関係ないんですか」。

「関係ない。材料を揃えるのにいくらかかるか、それだけで値段が決まる。上がるか下がるかの予想は、この計算のどこにも入らない」。

「では、7千円で買った人はどうなるんですか」。

「こちらが3333円で同じものを作って7千円で売れば、差額の約3667円がそのまま利益になる。コインが表でも裏でも、この利益は変わらない。予想を値段に混ぜた人は、予想が当たろうと外れようと、混ぜた分だけ持っていかれる」。

金融工学が答えるのは「この商品はいくらか」であって、「明日、相場は上がるか」ではありません。数学が得意でも相場には勝てません。しかし、誰かが値段を間違えたとき、それを見抜く道具にはなります。この区別が、100本を通じた出発点です。

1. 動機 ― この分野は何に答えて、何に答えないのか

この回を読み終えると、金融工学が相場の予想ではなく価格の整合性を計算する学問であることを、人に説明できます。

「株は上がりますか」と聞かれたら、金融工学は「わかりません」と答えます。そしてこう続けます。「でも、このオプションがいくらかは計算できます」。

この分野が扱うのは値動きの予想ではなく、金融商品の価格です。もう少し正確に言えば、ある商品の価格と別の商品の価格の整合性を計算する学問です。

答えられる問いと答えられない問いを並べます。

答えられる問い 答えられない問い
このオプションはいくらか 来月、株は上がるか下がるか
プットとコールの価格にはどんな関係があるか 来年の為替レートはいくらか
金利が変わったら債券価格はどう動くか どの銘柄を買えば儲かるか

左の列に共通するのは、「ほかの商品の価格を所与として、整合的な値段を求めている」という点です。右の列は、将来の値動きの方向を当てようとしています。金融工学は左の列だけを引き受けます。

数学が得意だから相場に勝てる、というわけではありません。この分野が得意なのは価格の矛盾を見つけることであって、将来を予言することではありません。

この記事では、この違いがなぜ生じるのかを直感的に説明し、100本かけてそれを厳密にしていく道筋を示します。

2. 設定と仮定 ― この記事で使う言葉を決める

この先100本の記事を通じて使う言葉をいくつか決めておきます。専門用語は初出のたびに定義し、定義していない語は使いません。

  • 原資産: 値段が変動する元になる資産のことです。株、為替、金利、商品など何でもよいですが、数値例では「株」と呼ぶことがあります。時刻 の価格を と書きます。
  • 安全資産: 元本と利息が確定している資産です。銀行預金のようなものです。利率を と書きます。
  • ペイオフ: 満期に受け取る金額のことです。原資産の値動きに応じて変わります。 と書きます。
  • 複製: ある商品のペイオフを、原資産と安全資産の組み合わせで完全に再現することです。
  • 複製コスト: 複製に必要な元手のことです。
  • 裁定(さいてい): 元手ゼロ(またはそれ以下)で始めて、損をする可能性がゼロで、得をする可能性がある取引のことです。「タダ飯」と思ってください。
  • 無裁定: 裁定が存在しない状態のことです。まともな市場では裁定は(ほぼ)存在しないと考えます。

このシリーズでは、無裁定をただ一つの公理として置きます。「市場にタダ飯はない」。これだけの仮定から、驚くほど多くの価格が決まります。

これらの用語は notation.md に従って統一します。記号は使うたびに定義しますので、今の時点ですべて覚える必要はありません。

3. 100本かけて答える問い

このシリーズが100本かけて答える問いは、次の一つです。

ある金融商品のペイオフが決まっているとき、無裁定の仮定だけで、その商品の価格はいくらに定まるか。

「上がりそうだからいくら」ではありません。「この材料で作り直すのにいくらかかるか」です。

具体的に言えば、原資産と安全資産を組み合わせて商品のペイオフを複製し、その複製にかかるコストを価格とみなします。これが金融工学の価格付けの基本的な考え方です。

この考え方が正しい――つまり複製コスト以外の価格を付けたら裁定が生じる――ことを、このシリーズでは段階を追って証明していきます。第2回でまず無裁定の公理を正確に述べ、第44回で1期間モデルにおける複製を示し、第45回で価格が複製コストに一致することを証明します。

ここで重要な予告をしておきます。価格を決めるのに、株が上がる確率は要りません。 これは直感に反するかもしれませんが、100本のうちの核心部分です。なぜそうなるのかの概略を次の節で述べ、厳密な証明は第44回と第45回に送ります。

4. なぜ予想を使わずに価格が決まるのか

ここでは証明の全体像だけを示します。厳密な導出は第44回と第45回で行います。

考え方は単純です。ある商品のペイオフを、手持ちの株と安全資産で完全に再現できるとします。上がった世界でも下がった世界でも、商品が払う金額とまったく同じ金額を手元のポートフォリオが生み出すように組みます。

このとき、商品の値段はポートフォリオの組み立てコストに一致しなければなりません。もし商品がこのコストより高い値段で売られていれば、商品を売ってポートフォリオを買えば、元手ゼロで確実に利益が出ます。逆に安すぎれば、商品を買ってポートフォリオを売ればよい。どちらも裁定です。

ここで注目してほしいのは、ポートフォリオの組み立て条件が「上がった世界でぴったり、下がった世界でもぴったり」という状態ごとの等式であることです。「上がる確率が何パーセント」という情報は、この等式のどこにも入りません。確率は平均を取るときの重みですが、複製では平均を取らないのです。状態ごとにぴったり合わせるだけなので、重みは不要です。

だから、あなたが「株は7割の確率で上がる」と思おうと、別の人が「3割しかない」と思おうと、複製コストは同じです。価格は予想ではなく、作り直すコストで決まります。

この考え方を複製による価格付けと呼びます。数式を使った証明は第44回で複製ポートフォリオの存在を示し、第45回で価格が複製コストに一致することを証明するときに、一切省略せずに行います。

5. 価格を期待値だと思うと何が起きるか

「商品の価格は、将来もらえる金額の期待値を割り引いたものだ」と思っている人は少なくありません。この理解は、半分正しく、半分間違っています。間違っている半分が致命的です。

どこが問題かを、この節では言葉で示します。数値による検証は次の節で行い、裁定として利益を取り出す計算の詳細は第45回に送ります。

CEX-INTRO-1: 確率を変えても複製コストは変わらない

コイン投げで表が出たら1万円もらえ、裏なら何ももらえない権利を考えます。この権利にいくらの値段を付けるべきでしょうか。

「表の確率が だから、期待値は 円だ。これを割り引いたものが価格だ」と考えたくなります。しかしこの論法では、 を変えるたびに価格が変わってしまいます。 なら 3,000 円、 なら 7,000 円です。

一方、この権利を株と安全資産で複製すると、そのコストは がいくつであっても変わりません。次の節で具体的に確かめますが、複製コストは約 3,333 円で一定です。

と見積もった人が 7,000 円の値段を付けたとします。こちらが 3,333 円の複製を持っていれば、その人に 7,000 円で売って複製を組むだけで、約 3,667 円の利益が確定します。満期にはペイオフと複製の価値が完全に相殺するので、損失はゼロです。これが裁定です。

期待値で価格を付けた人は、確率の見積もりが正しかろうと間違っていようと、複製コストとの差額だけ損をします。第45回で、この裁定利益を数式で導出します。

CEX-INTRO-2: この分野が答えられない問い

金融工学が「価格の整合性」を答える学問であることの裏返しとして、答えられない問いがあります。

  • 来月、株は上がりますか ― 上がる確率は価格の計算に入らないので、この分野の道具では答えようがありません。
  • どの銘柄を買えば儲かりますか ― 銘柄選択は値動きの方向の予想に依存します。整合的な価格を計算する道具では方向は出ません。
  • いつ売ればよいですか ― これも値動きの予想です。

これらの問いが無意味だというわけではありません。ただ、この分野の守備範囲の外にある、ということです。数学が得意なら相場に勝てるという期待は、金融工学がカバーする領域を誤解しています。

価格付けに確率の予想が不要であること、そしてその理由は、100本を通じて繰り返し現れるテーマです。

6. 数値例 ― コイン投げの権利に値段を付けてみる

前節の話を数値で確かめます。

設定

株が1つあり、現在の価格は です。1期間後に、株価は2倍の になるか、半分の になるかのどちらかです。安全資産の利率は (利息なし)とします。

コイン投げの権利のペイオフは、上昇なら 、下落なら です。

複製ポートフォリオを作る

株を 単位、安全資産に 円を置くポートフォリオで、このペイオフを複製します。各状態でペイオフに一致する条件は

です。上の式から下の式を引くと 、すなわち

です。これを下の式に戻すと

です。 が負なので、 円ほど借り入れて株を買っていることになります。

複製コスト

検算: 満期のペイオフと一致するか

上昇のとき:

下落のとき:

どちらの状態でもペイオフと完全に一致します。この計算のどこにも「上がる確率」は登場していません。

素朴な期待値割引との比較

上がる確率を として、「期待値を割り引いたもの」を計算すると( なので割引は不要)

です。 を変えて並べます。

素朴な価格 複製コスト 差額

複製コストが で一定であるのに対し、素朴な期待値割引は とともに動いてしまいます。

差額の列に注目してください。たとえば の人がこの権利を 7,000 円で売ったとすると、こちらは 3,333 円で複製を組んで差額の約 3,667 円を受け取れます。満期にはペイオフと複製が相殺するので、この 3,667 円が無リスクの利益になります。第45回で、この差額が裁定利益そのものであることを厳密に示します。

複製コストだけが に依存しない「正しい価格」であり、それ以外の値段を付けると裁定が生じます。これがこのシリーズ全体を通じた核心です。

7. 次回へ ― たった一つの公理を置く

今回は「金融工学は予想ではなく価格を計算する」という宣言をしました。そして、価格は複製のコストで決まること、そのコストに上がる確率は入らないことを、コイン投げの例で数値的に確かめました。

次回(第2回)からは、この議論を厳密にしていきます。まず置くのは、このシリーズで唯一の公理です。

無裁定: 市場にタダ飯はない。

この一行から、一物一価の法則が導かれ、複製による価格付けが正当化されます。第2回では、この公理を正確に述べ、そこから何が出て何が出ないかを明らかにします。

次のマイルストーンまであと 15 本です。

よくある質問

数学が得意なら相場に勝てますか

この分野が答えるのは、この商品はいくらか、であって、上がるか下がるか、ではありません。前者は計算できますが、後者は計算できません。

価格は期待値ではないのですか

将来の平均を割り引いたものだと思うと外れます。価格は、その商品を手持ちの道具で作り直すのにいくらかかるかで決まります。

数学のどこまでを前提にしますか

高校数学から始めます。大学の内容は数学編で別に扱うので、本編を読むだけなら身構えなくて大丈夫です。

参考文献

  • Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
  • Baxter M. and Rennie A.、Financial Calculus、Cambridge University Press、1996年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

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