第3回 キャッシュフローという共通言語 ― 株も債券も保険も同じ形に書ける

第3回 キャッシュフローという共通言語 ― 株も債券も保険も同じ形に書ける

位置: 第1部 第3回 / 前提: 第1回、第2回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 株・債券・保険を支払いの表に書き直し、名前の違う商品が実は同じものかを判定できる

目次

0. 物語 ― 名前が違うだけの同じ商品

ある運用担当者が、保険の満期返戻金を98で買い付けました。同じ時期に、同じ満期・同じ受取額の割引債が100で売られていたのに、「保険と債券は別の商品だから、安い方がお得だ」と考えたのです。

ところが、別の市場参加者がこれを見逃しませんでした。その人は割引債を100で売り、保険を98で買い、差額の2を手元に残しました。どちらの商品も、満期に105を受け取って終わりです。売った割引債から105を払い、買った保険から105を受け取るので、満期の損得はゼロです。最初に残った2は、何が起きても手元に残ります。

元手なしで2の利益が確定する。これは裁定です。運用担当者が「別の商品だ」と思い込んだ瞬間、この裁定を許してしまいました。

名前が違っても、「いつ・いくら・どの状況で受け取るか」が同じなら、値段も同じでなければなりません。名前を全部はがして、受け取る金額の並びだけを書き出したものがキャッシュフロー表です。預金でも債券でも保険でも、同じ表になるなら同じ商品です。

この回では、キャッシュフロー表が同じ商品は同じ値段になることを証明します。さらに、どんな商品でも「ある一つの時点・一つの状況でだけ受け取る」という最小の部品に分解でき、その部品の足し算で全体の値段が決まることを示します。

1. 動機 ― 商品の名前を全部忘れると何が残るか

この回を読み終えると、株・債券・保険を支払いの表に書き直し、名前の違う商品が実は同じものかを判定できます。

名前を全部忘れて、受け取る金額の並びだけを見る。この並びをキャッシュフローと呼びます。金融のあらゆる商品は、キャッシュフローを使えば同じ形式で書き下せます。形式が揃えば比較ができ、比較ができれば「価格はいくらであるべきか」という問いに答える準備が整います。

今回は、キャッシュフローで商品を記述する方法を決め、「同じキャッシュフローなら同じ価格」という原則を証明します。さらに、任意のキャッシュフローを基本証券という部品に分解できることを示します。

この記事で証明すること

  • THM-CF-1 2つの商品がすべての時点とすべての状態で同じキャッシュフローを生むなら、無裁定市場では価格が等しくなります。
  • THM-CF-2 有限個の時点と状態の上では、任意のキャッシュフローは基本証券の線形結合として一意に書けます。
  • THM-CF-3 複数の商品を組み合わせた建玉のペイオフは、各商品のペイオフの足し算に等しくなります。

2. 設定と仮定 ― キャッシュフロー表の書き方を決める

キャッシュフローを正確に扱うために、次の取り決めをします。第2回の無裁定の仮定はすべて引き継ぎます。

  • キャッシュフローは、時点と状態の組に対して1つの実数を定めます。
  • 符号は、受け取りが正、支払いが負です。
  • 時点も状態も有限個とします。時点を 、状態を と書きます。
  • 通貨は1種類とし、数値に単位は付けません。

これで、あらゆる商品は「時点 × 状態」の表に書けます。表の 成分は、時点 に状態 が起きたとき受け取る金額です。この表をキャッシュフロー表と呼びます。

もっとも簡単な例として、時点が の1つだけ、状態も1つ(確定的)の場合を考えます。このとき表は1つの数値になります。「満期に 105 を受け取る」という商品のキャッシュフロー表は、ただの です。

ここまでの約束をまとめます。キャッシュフローとは「いつ・どの状況で・いくら」を漏れなく記録した表であり、商品の名前や成り立ちは表に含まれません。

3. 主張 ― 名前ではなく中身が価格を決める

3つの定理を述べます。最初の定理は、キャッシュフロー表が同じなら価格も同じであることを主張します。2つ目は、どんなキャッシュフローも基本的な部品に分解できることを示します。3つ目は、商品を組み合わせたときペイオフが足し算になることを述べます。

定理 THM-CF-1(キャッシュフローによる同値性) 2つの商品がすべての時点とすべての状態で同じキャッシュフローを生むなら、無裁定市場では価格が等しい。商品の名前や成り立ちは価格に影響しない。

次に、キャッシュフローを組み立てる部品を定義します。基本証券 とは、時点 に状態 が起きたときだけ 1 を払い、それ以外のすべての時点・状態では 0 を払う商品です。

定理 THM-CF-2(分解と合成) 有限個の時点と状態の上では、任意のキャッシュフローは、ある1つの時点と状態でだけ1単位を払う基本証券の線形結合として一意に書ける。

最後に、複数の商品を組み合わせたときの性質です。建玉とは、複数の商品をそれぞれ何単位ずつ保有するかを決めた組み合わせのことです。ペイオフとは、ある時点・状態で受け取る金額です。

定理 THM-CF-3(ペイオフ図の加法性) 複数の商品を組み合わせた建玉のペイオフ図は、各商品のペイオフ図の縦方向の足し算に等しい。

3つの定理は、キャッシュフローという記述形式が「比較」「分解」「合成」のすべてに対して整合的であることを保証します。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 同じ表なら同じ値段になることを見る

この節は読まなくても記事は完結します。

THM-CF-1 の証明

商品 X と商品 Y が、すべての時点 とすべての状態 で同じキャッシュフローを生むとします。つまり

価格が異なると仮定して、矛盾を導きます。X の購入価格を 、Y の購入価格を とし、 とします(逆なら X と Y を入れ替えれば同じ議論が成り立ちます)。

次の取引を行います。

  1. 商品 X を1単位売る。売却代金 を受け取ります。
  2. 商品 Y を1単位買う。購入代金 を支払います。

時刻0の損益を計算します。売却で を得て、購入で を払うので、手元に残るのは

です。これは正の金額です。

将来の任意の時点 と状態 での損益を計算します。X を売っているので、X のキャッシュフローを相手に渡す義務があります。Y を買っているので、Y のキャッシュフローを受け取ります。したがって将来の純キャッシュフローは

です。(1.1) を使いました。すべての時点・状態でキャッシュフローが同一なので、将来の損益は完全にゼロです。

まとめると、時刻0に の利益を確定し、将来は一切の損益が発生しません。これは第2回で定義した裁定そのものです。無裁定の仮定に矛盾します。

したがって は成り立ちません。 も同じ論法で排除されるので、 です。 ∎

この証明のポイントは、「X を売って Y を買う」という操作で将来のキャッシュフローが完全に相殺される点です。(1.1) の「すべての時点とすべての状態で」が効いています。1つでも異なる箇所があれば相殺が崩れ、この議論は使えません。

THM-CF-2 の証明

時点の集合を 、状態の集合を とします。基本証券 は次のように定義されています。

任意のキャッシュフロー に対し、各成分の値を と定めます。これが分解の係数です。

存在の証明: 線形結合 を構成し、これが に一致することを確認します。任意の時点 と状態 で評価すると

(2.1)

一意性の証明: 別の係数 で が成り立つとします。時点 、状態 で評価すると

一方、 ですから、 がすべての で成り立ちます。よって係数は一意です。 ∎

一意性が成り立つ理由は、基本証券が「時点 × 状態」のマス目ごとに1つずつ割り当てられており、互いに重なりがないからです。これは線形代数の標準基底と同じ構造です。

THM-CF-3 の証明

個の商品を考え、商品 のペイオフを 、保有単位数を とします。建玉のペイオフとは、保有している全商品から受け取るキャッシュフローの合計です。

任意の時点 と状態 で、建玉のペイオフは

です。これは各商品のペイオフ に保有単位数 を掛けたものの合計に他なりません。

ペイオフ図とは、横軸に状態(または原資産の価格)、縦軸にペイオフを取ったグラフです。グラフの各点で (3.1) が成り立つということは、縦方向の値が各商品の足し算になっているということです。

したがって、建玉のペイオフ図は各商品のペイオフ図の縦方向の足し算に等しいです。 ∎

この性質が便利なのは、複雑な建玉を1つずつ分解して考えられるからです。各商品のペイオフ図さえわかっていれば、それを足すだけで全体の損益がわかります。

5. 反例 ― 1つの状態が違うだけで価格は変わる

CEX-CF-1: 名前が違えば別物、という思い込みを壊す

銀行預金、割引債、保険の満期返戻金の3つを考えます。どれも「今 100 を払い、満期に 105 を受け取る」商品です。キャッシュフロー表にすると全く同じ形になります。

銀行預金
割引債
保険(満期返戻金)

3行とも同じ数字が並んでいます。THM-CF-1 により、無裁定市場ではこれらの価格は等しくなければなりません。

ここで、保険だけが 98 で購入できるとしましょう。次のように取引します。

  1. 銀行預金を解約して 100 を受け取ります(預金の売り)。
  2. 保険を 98 で購入します。
  3. 差額 を手元に残します。

満期には、預金から受け取るはずだった 105 と、保険から受け取る 105 が相殺します。手元に残るのは時刻0の 2 だけです。

元手なしで 2 の利益が確定しました。これは裁定です。「預金と保険は違う商品だ」という直観は正しいですが、キャッシュフローが同じである以上、価格は同じでなければならないのです。

CEX-CF-2: ほとんど同じだが1つの状態だけ違う2商品

THM-CF-1 は「すべての状態で一致する」ことを要求しています。では、1つの状態だけ異なるとどうなるでしょうか。

2つの状態 (上昇)と (下落)がある市場を考えます。基本証券の価格を 、 とします。

商品 A 100 50
商品 B 100 60

上昇の状態では両商品とも 100 を払います。下落の状態だけが異なり、A は 50、B は 60 です。

各商品の価格を、基本証券の線形結合(THM-CF-2)で計算します。

価格差は

一方、キャッシュフローが異なるのは下落状態だけで、その差は です。この差に下落状態の基本証券の価格を掛けると

(4.2)

つまり、たった1つの状態でも値が異なれば、その分だけ価格に差が生まれます。THM-CF-1 の「すべての状態で一致する」は一切の例外を許さない厳しい条件です。

6. 数値例 ― 預金と割引債と保険を同じ表に並べる

3商品のキャッシュフロー表

先ほどの例を改めて表にします。銀行預金、割引債、保険の満期返戻金のいずれも、時刻0に 100 を支払い、時刻1に 105 を受け取ります。

商品
銀行預金
割引債
保険(満期返戻金)

名前を消せば、3行は同じ行の3つのコピーです。THM-CF-1 より、無裁定市場ではいずれも同じ価格で取引されます。

3時点のキャッシュフローを基本証券に分解する

確定的な3時点 で、それぞれ 30、50、120 を受け取るキャッシュフローを考えます。基本証券 はそれぞれ でだけ 1 を払う商品です。

THM-CF-2 より、このキャッシュフローは次のように分解されます。

検算します。 で評価すると、 で他は 0 なので 。、 でも同様に元のキャッシュフローに一致します。係数はキャッシュフローの値そのものであり、THM-CF-2 の一意性によりこれ以外の分解はありません。

コール買いとプット売りのペイオフ表

行使価格 のコール買いとプット売りを組み合わせた建玉を考えます。THM-CF-3 によれば、合成ペイオフは各商品のペイオフの足し算です。

コール買い プット売り 合成
60 0
80 0
100 0 0 0
120 20 0 20
140 40 0 40

合成の列を見ると、すべての行で に等しくなっています。コール買いのペイオフは 、プット売りのペイオフは なので

のとき左辺は 、 のとき左辺は です。どちらの場合も になります。

この結果は THM-CF-3 の典型的な応用です。各商品のペイオフ図を描いて縦に足すだけで、合成のペイオフ図が得られます。

1状態だけ異なる2商品の価格差

CEX-CF-2 で見た例を数値でまとめます。基本証券の価格が 、 のとき、商品 A(ペイオフ 100, 50)の価格は 65、商品 B(ペイオフ 100, 60)の価格は 70 です。価格差 は、下落状態のキャッシュフロー差 に基本証券の価格 を掛けた に一致します。

ここまでの数値例は、「名前ではなくキャッシュフローが価格を決める」「基本証券で分解できる」「ペイオフは足し算になる」「1つの状態の差が価格差に直結する」という4つの主張を、すべて具体的な数字で確認したものです。

7. 次回へ ― いつ受け取るかで価値が変わる

同じ金額でも、いつ受け取るかで価値が変わります。今日の 100 と1年後の 100 は同じではありません。次回(第4回)では、時間と金額の関係を定量的に扱う割引の仕組みを導入します。キャッシュフロー表の各成分を「現在の価値」に換算する方法を見ていきます。

次のマイルストーンまであと 13 本です。

よくある質問

なぜわざわざ表に書き直すのですか

名前が違うだけで中身が同じ商品はたくさんあります。表にすると比べられる形になります。

株もキャッシュフローで書けますか

書けます。配当と売却代金の並びになります。ただし金額が確定していないので、状態ごとに分けて書きます。

基本証券は実際に売っていますか

単体ではあまり売っていません。計算のための部品だと思ってください。組み合わせれば作れます。

参考文献

  • Pliska S. R.、Introduction to Mathematical Finance ― Discrete Time Models、Blackwell、1997年
  • Luenberger D. G.、Investment Science、第2版、Oxford University Press、2013年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。

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