第63回 多次元の伊藤の補題 ― 相関するブラウン運動を扱う

第63回 多次元の伊藤の補題 ― 相関するブラウン運動を扱う

位置: 第6部 第63回 / 前提: 第59回、第60回 / 数学編: M3、M10 / この回でできるようになること: 相関のある2つの資産の価格の動きを、独立な乱数から作ってシミュレーションできる

目次

0. 物語 ― 独立な乱数をそのまま使う誤り

「銀行株と保険株の値動きをシミュレーションしたいんですが、乱数を2列作ればいいですよね」。研究室に来たばかりの学生が、画面を見せながら先生に聞きました。

先生は首を振ります。「その2列は独立に作っているね。銀行株と保険株は、どちらも金利の影響を受けるから、実際には連動して動く。目標の相関は0.5だったはず。その乱数の相関を調べてごらん」。

学生が計算すると、2列の標本相関はマイナス0.003でした。目標の0.5とはまるで違います。別のもう一組も調べると0.003で、目標の0.3からかけ離れています。独立に作った乱数をそのまま使うと、資産の間の連動がまったく再現されないのです。

先生は続けます。「連動を入れるには、独立な乱数に行列を掛けてやる。共分散行列をコレスキー分解という方法で三角行列に分け、それを独立な乱数に掛けると、目標の相関を持った乱数が出来上がる」。

学生がその手順でやり直すと、標本相関は0.50、0.31、0.40と、目標にぴたりと近づきました。十万本の乱数列が、きちんと連動しています。

もうひとつ大事な話があります。資産が2つ以上あるとき、それぞれの値動きの関数を微分する公式にも変化が起きます。1つの資産だけなら「二乗の項」だけを気にすればよかったのですが、2つ以上では「掛け合わせの項」も残ります。これが交差項と呼ばれるもので、相関がある限り消えません。交差項を無視すると、計算結果の期待値が理論値とずれてしまいます。

この回では、独立な乱数から相関のある値動きを正しく作る方法と、複数の資産に対応した微分の公式を、証明とともに示します。

1. 動機 ― 資産が2つ以上あるとどうなるか

この回を読み終えると、相関のある2つの資産の価格の動きを、独立な乱数から作ってシミュレーションできます。

これまでの伊藤の補題は「1つのブラウン運動で駆動される1つの伊藤過程」に関数を施す公式でした。しかし資産が複数あれば、ブラウン運動も複数になります。そして資産どうしは一般に相関します。

相関があるとき、伊藤の補題にはどの変数の組み合わせについても二階偏微分の項が現れます。これが交差項です。1次元のときに追加項が だったのが、多次元では全ての変数の組み合わせに広がります。

今回はまず相関ブラウン運動の増分の積を評価し、次に多次元の伊藤の補題を示し、最後にコレスキー分解で相関のあるブラウン運動を構成します。

この記事で証明すること

  • THM-MI-1 相関 の2つのブラウン運動について、増分の積の和は に収束します。
  • THM-MI-2 複数の伊藤過程を引数に持つ関数の微分には、各変数の一階の項に加え、二階の偏微分と共分散による交差項が全て現れます。
  • THM-MI-3 相関を持つブラウン運動は、独立なブラウン運動にコレスキー分解を掛けることで構成できます。

2. 設定と仮定 ― 相関するブラウン運動

以下の仮定を置きます。

  • 相関係数 は定数で、 とします。
  • 関数 は各変数について2回連続微分可能とします。
  • 共分散行列は正定値とします。
  • 数値実験では乱数のシードを固定します(seed = 42)。

をそれぞれ標準ブラウン運動とします。これらが相関係数 を持つとは

を意味します。 なら独立、 なら同じ方向に動きやすい、 なら逆方向に動きやすいことを表します。

3. 主張 ― 交差項がすべて現れる

定理 THM-MI-1(相関ブラウン運動の積) 相関係数 を持つ2つのブラウン運動 に対して、

が で成り立つ。

定理 THM-MI-2(多次元の伊藤の補題) が伊藤過程で、 であるとき、

ここで であり、 のときは である。

定理 THM-MI-3(コレスキー分解による構成) 相関行列 が正定値であるとき、下三角行列 で を満たすものが存在する。独立な標準ブラウン運動の列 に対して とおくと、 は相関行列 を持つ。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 多変数のテイラー展開に当てる

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第3回「偏微分、全微分、多変数のテイラー展開」、数学編 第10回「コレスキー分解」へ。

THM-MI-1 の証明

をコレスキー分解で表します。

ここで は と独立な標準ブラウン運動です。増分は

増分の積を計算します。

で和を取ります。

第1項は 掛ける の二次変分です。二次変分の収束定理(第57回)より、 で に 収束します。

第2項を評価します。 と は独立なので

で ノルムが に収束するので、第2項は に消えます。

以上より、和は に 収束します。 ∎

THM-MI-2 の証明

を伊藤過程とします。

を 等分します。2変数のテイラー展開を適用します。

ここで 、 です。

で和を取り、 の極限を取ります。1次の項のうち の項はリーマン和として通常の積分に、 の項は左端点で評価した和として伊藤積分に収束します。二階の項は、THM-MI-1 と同様の議論で次のように収束します。

第1式は1次元の二次変分の結果です。 を含む項は の寄与で消えます。

第2式が交差項です。 を展開すると、 が残り、その和は THM-MI-1 より に収束します。

剰余項 は、 が2回しか微分できないので3次のオーダーとは言えません。平均値の形のテイラーの定理で二階の係数を区間内の点で評価すると、 は「区間内の点での と左端点での の差」と の積で書けます。経路は連続で有界な範囲に収まり、そこで は一様連続なので、差の最大値は刻みを細かくすると に近づきます。一方 は二次変分で抑えられて有界です。したがって は に収束します。二階偏微分の連続性はここで使います。

以上を合わせると

これは THM-MI-2 の2変数版です。 変数への拡張は、全ての の組について交差項を加えるだけです。 ∎

THM-MI-3 の証明

次元の相関行列 が正定値であるとき、コレスキー分解 が存在します。 は下三角行列で、対角成分は全て正です。

を独立な標準ブラウン運動の列とし、 とおきます。

の共分散行列を計算します。 なので

は独立性から従います。したがって は相関行列 を持つブラウン運動です。

コレスキー分解は が正定値であれば必ず存在し、下三角の制約のもとで一意です。逆に、どんなブラウン運動の組でも、任意のベクトル について です。したがって に負の固有値があれば、分解は存在せず、そのような相関を持つブラウン運動は構成できません(固有値 を含む場合は、対角成分に を許す分解で構成できますが、本記事では正定値の場合だけを扱います)。 ∎

5. 反例 ― 交差項を落とすと合わない

CEX-MI-1: 2資産の積で交差項を落とす

に THM-MI-2 を当てます。, , , なので

交差項 を落とすと です。両辺の期待値を取ると、伊藤積分の期待値は 0 なので

しかし実際は です。シミュレーション値は 0.5050 で、理論値に一致しています。交差項を落とした右辺の期待値は 0.0049 で、左辺の 0.5050 と合いません。

量 値
(実測) 0.5050
交差項あり右辺の期待値 0.5049
交差項なし右辺の期待値 0.0049
理論値 0.5

交差項 が無いと、両辺の期待値が矛盾します。

CEX-MI-2: 正定値でない相関行列

3資産で , , とします。この相関行列の固有値は

負の固有値があるので正定値ではありません。コレスキー分解を試みるとエラーになります。

直感的に理解できます。資産1と2が強く正の相関、資産1と3も強く正の相関なら、資産2と3も正の相関を持つはずです。 はこれに矛盾します。3つ以上の資産では、相関係数を個別に自由に指定することはできません。整合する組み合わせ(正定値行列になる組み合わせ)しか存在できません。

CEX-MI-3: 独立な乱数をそのまま使う

目標の相関 を無視して、独立な標準正規乱数をそのまま使った場合の標本相関は

相関 目標 独立乱数の標本相関
0.5 -0.0027
0.3 0.0025

相関がほぼ 0 で、目標とはかけ離れています。コレスキー分解を掛ける操作が不可欠です。

6. 数値例 ― コレスキー分解で相関を作る

3資産の相関行列 , , に対してコレスキー分解を実行すると

独立な標準正規乱数 に を掛けた の標本相関は

相関 目標値 標本値
0.5 0.5011
0.3 0.3060
0.4 0.4013

100,000パスで、3つとも目標値に十分近い値が得られています。コレスキー分解による構成が正しく機能していることが確認できます。

相関ブラウン運動の増分の積の和(THM-MI-1)も確認します。, のとき理論値は です。100,000パスの平均値は 0.5000 で、標準偏差 0.0353 でした。

7. 次回へ ― 測度を取り替える

今回は相関するブラウン運動の扱い方と、多次元の伊藤の補題を示しました。交差項が全ての変数の組み合わせについて現れること、そしてコレスキー分解で相関を実現することが要点です。

次回はギルサノフの定理を扱います。測度を取り替えるとドリフトが変わる、という結果は、リスク中立測度への移行を正当化する鍵です。

次のマイルストーンまであと 14 本です。

よくある質問

交差項とは何ですか

2つの変数の両方で微分した項です。相関があると残ります。

コレスキー分解とは何ですか

共分散行列を三角行列の積に分ける方法です。独立な乱数から相関のある乱数を作れます。

相関係数は好きに決められますか

3つ以上になると制約が出ます。整合しない組み合わせは存在できません。

参考文献

  1. Øksendal B.、Stochastic Differential Equations、第6版、Springer、2003年
  2. Glasserman P.、Monte Carlo Methods in Financial Engineering、Springer、2004年

数値例は compute.py により float で計算。100,000パス、乱数シード 42 を固定。

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