数学編 第23回 ラドン・ニコディム微分 ― 測度を測度で割る

位置: 数学編 第23回 / 前提: M14, M16 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 測度を取り替えたときの期待値を、ラドン・ニコディム微分で計算できる
0. 物語 ― 密度を掛け忘れて期待値を取る誤り
トレーディングデスクで、ある資産の期待収益を計算する場面を考えてみてください。4つの起こりうるシナリオがあり、それぞれの資産の値は8、4、2、6です。ここに2つの確率の見方があります。ひとつは市場が想定している確率で、もうひとつはリスクを調整した後の確率です。
リスク調整後の確率で計算すると、この資産の期待値は6になります。ところが、ある担当者が「確率を切り替えたのだから、そのまま別の確率で平均を取ればいい」と考えて、市場の確率でそのまま期待値を計算してしまいました。結果は5です。正しい値との差は1で、これは無視できない大きさです。
なぜずれたのでしょうか。確率の割り当てを変えるときには、ただ確率を入れ替えるだけでは足りません。2つの確率の「比」にあたる重みを、資産の値に掛けてから平均を取る必要があります。この重みを忘れると、確率の違いが反映されないまま計算が進み、答えがずれてしまいます。
同じことは、正規分布を使った連続的な計算でも起きます。平均がゼロの分布をもとに、平均が0.5の分布での期待値を求めたいとします。重みを正しく掛ければ、期待値はおよそ0.5になります。しかし重みを掛けずに計算すると、答えはゼロ付近のままで、誤差はおよそ0.5です。分布が連続であっても、離散であっても、確率を乗り換えるなら重みは欠かせません。
この回では、この「重み」の正体を明らかにします。2つの確率の比として定まる関数があり、それを使えば、どちらの確率のもとでも正しく期待値を計算できることを証明します。
1. 動機 ― 確率の割り当てを変えるとはどういうことか
この回を読み終えると、測度を取り替えたときの期待値を、ラドン・ニコディム微分で計算できます。
同じ事象に対して、2つの確率の割り当て方があるとします。たとえば、サイコロの目の出やすさについて、あなたと相手が違う信念を持っている状況です。このとき「相手の確率は、自分の確率に何か重みを掛けたもので書けないか」と考えるのが、ラドン・ニコディム微分の出発点です。
金融では、現実の確率
この記事で証明すること
- THM-M23-1
が に関して絶対連続であれば、 を 上での の による積分として表す非負可積分な がほとんど確実に一意に存在します。この定理は結果として引用します。 - THM-M23-2
のもとでの の期待値は、 のもとでの の期待値に等しいことを証明します。 - THM-M23-3
と が互いに絶対連続なら、 の に関する微分は の逆数に等しいことを証明します。
この節のまとめ: 測度の変換を「重み関数
2. 設定と仮定 ― 2つの測度と絶対連続性
同じ標本空間
絶対連続性
が成り立つことです。
直感的には「
同値な測度
ラドン・ニコディム微分
を満たすものを
有限の標本空間では、各標本点
です。「測度を測度で割る」という本記事のタイトルは、この (2.2) のことを指しています。
この節のまとめ: 絶対連続性は「確率
3. 主張 ― 新しい測度は重みで書ける
定理 THM-M23-1(ラドン・ニコディムの定理)
が に関して絶対連続であれば、非負可積分な確率変数 で を満たすものが存在し、
-ほとんど確実に一意である。
この定理は測度論の中心的な結果です。証明は Folland (1999) の第3章に詳しく載っています。本記事ではこの定理を認めた上で、そこから導かれる性質を証明します。
です。つまり
定理 THM-M23-2(期待値の変換公式)
-可積分な確率変数 に対し、 が成り立つ。ここで右辺の期待値は
のもとでの期待値である。
定理 THM-M23-3(同値な測度での逆数)
のとき、 が -ほとんど確実に成り立ち、 が
-ほとんど確実に成り立つ。
この節のまとめ: ラドン・ニコディムの定理により、絶対連続な測度は重み
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 有限の場合に比として構成する
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第14回「ルベーグ積分」、数学編 第16回「条件付き期待値は射影である」へ。
THM-M23-2 の証明
有限の標本空間
ここで各
と書き換わります。(4.2) の右辺は確率変数
が得られます。
論法を振り返ると、核心は「
一般の標本空間では単元集合に分解できないので、次の3段階で同じ置き換えを行います。(i)
THM-M23-3 の証明
ステップ 1:
です。
ステップ 2:
示すべきことは、任意の
が成り立つことです。(4.3) の右辺を変形します。
最後の等号は THM-M23-2 を
(4.4) の右辺で
これで (4.3) が示されました。ラドン・ニコディム微分の一意性(THM-M23-1)により、
5. 反例 ― 確率0を正にすることはできない
反例 CEX-M23-1: 絶対連続性が破れると密度は存在しない
4点の標本空間
もし密度
反例 CEX-M23-2: 密度は1を超えてよい
「確率の比なのだから
であり、(3.1) が成り立っています。
反例 CEX-M23-3: 密度を忘れると期待値がずれる
確率変数
正しくは THM-M23-2 により
この節のまとめ: 絶対連続性が破れると密度は存在せず、密度は
6. 数値例 ― 正規分布の平均を動かす
有限の例に続いて、連続分布での測度変換を見ます。
4点の標本空間での確認
まず有限の例で定理を確認します。
一致します。THM-M23-3 の逆数も確認します。
正規分布の測度変換
となります。指数の中身は
100万点のモンテカルロシミュレーション(シード固定)で検証します。
(理論値 ) (理論値 ) を掛けずに ( )
この節のまとめ: 正規分布の平均をずらす測度変換では、密度
7. 次回へ ― 必勝法が作れない理由
ラドン・ニコディム微分は、ある測度のもとでの計算を別の測度のもとでの計算に翻訳する道具です。本編第64回では、現実の確率
次回 M24 では、停止時刻とドゥーブの任意抽出定理を扱います。マルチンゲールの性質を使って、賭けで必勝法が作れない理由を数学的に示します。
この節のまとめ: ラドン・ニコディム微分は測度間の翻訳を行う道具で、金融数学では確率の乗り換えに使われます。
よくある質問
測度を測度で割るとはどういうことですか
同じ事象に対して2つの確率があるとき、その比を事象ごとに取ったものです。
なぜ絶対連続性が要るのですか
0で割ることになるからです。元の測度で起きない事象に新しい測度で確率を与えることはできません。
金融でどう使うのですか
現実の確率からリスク中立確率に移るときに、この重みを使います。
参考文献
- Williams D.、Probability with Martingales、Cambridge University Press、1991年
- Folland G. B.、Real Analysis、第2版、Wiley、1999年
数値例は compute.py により有理数演算(4点の例)およびモンテカルロシミュレーション(正規分布の例、シード固定)で検算済み。

