第65回 マルチンゲール表現定理 ― ヘッジできることの正体

第65回 マルチンゲール表現定理 ― ヘッジできることの正体

位置: 第6部 第65回 / 前提: 第47回、第58回、第64回 / 数学編: M22 / この回でできるようになること: オプションのヘッジ比率が、価格過程の表現のどこに現れるかを説明できる

目次

0. 物語 ― 理論上は複製できても実行できない

あるトレーダーが、コールオプションを売って、教科書通りに株を買ってヘッジしようとしました。最初の保有量は全体の約6割です。株が上がれば8割に増やし、下がれば3割に減らす。教科書にはこう書いてあります。「この比率で持ち続ければ、どんな結果になってもオプションの支払い義務をちょうどまかなえる」。

問題は満期の直前に起きました。株価が行使価格のすぐ近くにあるとき、保有量は約45%です。ここから1ステップで株が上がれば保有量は100%に、下がれば0%に切り替えなければなりません。ほんの少しの値動きで、株の持ち高を全部入れ替える必要があるのです。

3回しかステップがないモデルでは、この切り替えは目に見えます。しかし連続時間で考えると、満期に近づくほど切り替えは激しくなります。行使価格のすぐ上なら全力で株を持ち、すぐ下ならまったく持たない。その境目をまたぐたびに、持ち高を一瞬で入れ替えなければなりません。

理論上は、取引コストがなく、どんな端数でも売買でき、どんな頻度でも組み替えられるなら、この戦略は完璧に機能します。教科書が保証しているのは、まさにこの条件のもとでの話です。しかし実際の市場では、取引のたびにコストがかかり、秒単位の売買にも限界があります。満期直前に持ち高を一瞬で動かすことは、できません。理論が約束する完全な複製は、実行しようとした瞬間に崩れるのです。

この回で扱うのは、なぜ理論上はどんなペイオフでもヘッジできるのか、そしてそのヘッジに必要な保有量がどこから出てくるのか、という問いです。

1. 動機 ― なぜ任意のペイオフがヘッジできるのか

この回を読み終えると、オプションのヘッジ比率が、価格過程の表現のどこに現れるかを説明できます。

ブラウン運動だけで動く市場では、どんなペイオフでも原資産を連続的に売買することで複製できます。なぜそんなことが可能なのでしょうか。

答えはマルチンゲール表現定理にあります。ブラウン運動が生成するフィルトレーションに関するマルチンゲールは、すべて伊藤積分の形で書けるという定理です。これは「複製できる」ことの数学的な正体であり、その積分に現れる被積分過程は、複製に必要な原資産の保有量(デルタ)そのものです。

今回は定理を引用し、その意味を離散の二項ツリーで確認します。定理の証明は高度な測度論を要するため引用にとどめますが、何を言っているのか、どう使うのかは完全に理解できるようにします。

この記事で証明すること

  • THM-MR-1 ブラウン運動が生成するフィルトレーションに関する任意の二乗可積分マルチンゲールは、ある適合過程による伊藤積分として一意に表せます(証明は引用)。
  • THM-MR-2 表現定理が成り立つことと、任意のペイオフが自己資金調達戦略で複製できることは同じ内容です。
  • THM-MR-3 表現に現れる適合過程は、複製に必要な原資産の保有量に対応します。

2. 設定と仮定 ― ブラウン運動が作る情報

標準ブラウン運動 を固定し、 を ()が生成するフィルトレーション(の完備化)とします。この は「時刻 までにブラウン運動の経路を見て得られる情報」です。

以下の仮定を置きます。

  • フィルトレーション: はブラウン運動が生成するものに限る。外部からの情報(ジャンプ、ニュース)は含まない。
  • ペイオフ: (二乗可積分)。
  • 取引: コストなし、連続的な組み替えが可能。
  • 定理の証明: 引用にとどめ、意味と使い方を示す。

この節のまとめ: 情報源がブラウン運動だけであることが、表現定理が成り立つための鍵です。

3. 主張 ― マルチンゲールは積分で表せる

定理 THM-MR-1(マルチンゲール表現定理) がフィルトレーション に関する二乗可積分マルチンゲールであるとき、-適合な過程 が一意に存在して

と表せる。

この定理の証明は測度論的な議論を要するため、Harrison–Pliska (1981) および Karatzas–Shreve (1991) に譲ります。

(3.1) が言っていることは単純です。「ブラウン運動の経路だけを見て決まるマルチンゲールは、すべてブラウン運動に対する伊藤積分で書ける」ということです。伊藤積分はマルチンゲールですから、(3.1) の右辺はマルチンゲールです。定理の主張は、逆方向も成り立つこと、つまりどんなマルチンゲールでもこの形に書けること、そして が一意であることです。

定理 THM-MR-2(完備性との対応) 表現定理が成り立つことと、任意の二乗可積分ペイオフ が自己資金調達戦略で複製できることは同値である。

定理 THM-MR-3(被積分過程がデルタである) 表現 (3.1) に現れる適合過程 は、 を複製するために時刻 で保有すべき原資産の量(デルタ)に対応する。

この節のまとめ: 表現定理は「任意のマルチンゲール=伊藤積分」、完備性は「任意のペイオフ=複製可能」、そして被積分過程=デルタです。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 離散版で対応を確かめる

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第22回「マルチンゲールと収束定理」へ。

THM-MR-2 の証明

リスク中立測度 のもとで、任意のペイオフ ()に対し

はマルチンゲールです(条件付き期待値の塔の性質による)。

表現定理(THM-MR-1)を適用すると、-適合な過程 が存在して

一方、自己資金調達ポートフォリオの割引後の価値過程は

原資産の割引価格 はリスク中立測度のもとでマルチンゲールであり、 と書けます。 とし、 を

と定めれば、(4.2) と (4.3) が一致します。 で ですから 。複製が完了します。

逆に、もしすべてのペイオフが複製できるなら、(4.3) の形ですべてのマルチンゲールが書けるので、表現定理が成り立ちます。 ∎

THM-MR-3 の証明

(4.4) から直ちにわかります。表現 (3.1) の被積分過程 は、ポートフォリオのデルタ と

の関係にあります。, , は既知ですから、 が決まれば も一意に決まります。

表現定理が の一意性を保証しているので、複製に必要なデルタも一意です。「ヘッジの仕方は1通りしかない」というのがこの定理の帰結です。 ∎

二項ツリーで対応を確認する

離散の二項ツリーでは、表現定理の離散版が目に見える形で成り立ちます。3期間モデル(, , , , )で確認します。

各ノードでのデルタは

で一意に定まります。これは THM-MR-3 の離散版です。各時点で「次の1ステップを複製するのに必要な株の量」が、オプション価格の差と株価の差の比で決まります。

初期ノードでは 。複製ポートフォリオの初期価値は

これはコール価格 に一致します。

時点1で上昇が起きた場合、ポートフォリオ価値は で、その時点のコール価格 と一致します。下落の場合も でコール価格と一致します。デルタに従ってリバランスすれば、各時点でオプション価格を追い続けるのです。

この節のまとめ: 表現定理が保証する「伊藤積分で書ける」は、離散では「各ステップのデルタで複製できる」に対応します。

5. 反例 ― ジャンプが入ると崩れる

CEX-MR-1: ジャンプを含む情報が加わる場合

表現定理はフィルトレーションがブラウン運動由来であることを前提としています。ジャンプ(ポアソン過程)を加えると、ブラウン運動だけでは新たなリスク源をヘッジできなくなります。

シミュレーションでコールのデルタヘッジを行い、ヘッジ誤差を比較します。

ジャンプなし ジャンプあり
誤差の平均
誤差の標準偏差
誤差の絶対値平均

ジャンプなしでも離散ヘッジのため誤差は残りますが、ジャンプを加えると誤差の絶対値平均が から に増えます。ジャンプはブラウン運動の伊藤積分では表現できないので、その分だけ複製誤差として残ります。

CEX-MR-2: 保有量が満期直前に発散する場合

ツリーの時点2(満期1期前)のデルタを見ます。

ノード 株価 デルタ
(深い OTM)
(ATM 付近)
(深い ITM)

ATM 付近ではデルタが と の間で急変しています。連続時間では満期直前のデルタが不連続( なら1、 なら0)になるため、理論上の保有量が無限に速く変動します。実際には連続的な組み替えができないので、理論上の複製は実行不可能です。

CEX-MR-3: 表現の一意性

同じツリーでデルタを2通りの方法で求めます。

  1. ペイオフの差と株価の差の比:
  2. 2元1次連立方程式を解く: ,

どちらも全ノードで同じ値を与えます。2つの未知数に対して2本の独立な方程式があるので解は一意です。これは表現定理の一意性の離散版です。

この節のまとめ: ジャンプが加わると複製誤差が増え、満期直前のデルタの急変は実行可能性の限界を示します。

6. 数値例 ― ツリーでデルタと対応させる

3期間二項ツリー(, , , , )の全データを並べます。

満期のペイオフ:

上昇回数 株価 コールペイオフ
0
1
2
3

各ノードの価格とデルタ:

ノード 株価 コール価格 デルタ

デルタの変化を追うと、時点0では だったものが、上昇すれば 、下落すれば になります。さらに時点2で上昇を続ければ (全額を株に投じる)、下落を続ければ (株を持たない)に近づきます。これがマルチンゲール表現定理で言う「適合過程 」の離散版です。

複製の検算: 初期にデルタ 株を買い、 を借り入れます。上昇後のポートフォリオ価値は 、コール価格と一致。下落後も で一致します。

この節のまとめ: ツリーの各ノードでデルタが一意に定まり、ポートフォリオ価値がオプション価格を追い続けることが確認できます。

7. 次回へ ― 期待値と偏微分方程式を結ぶ

今回は、マルチンゲール表現定理が「任意のペイオフをヘッジできる」ことの数学的な保証であることを見ました。被積分過程がデルタに対応し、情報源がブラウン運動だけなら複製は可能ですが、ジャンプが加わると不可能になります。

次回(第66回)では、ファインマン・カッツの公式を扱います。期待値計算と偏微分方程式が同じものであることを示し、ブラック・ショールズ方程式への道を開きます。

次のマイルストーンまであと 12 本です。

よくある質問

この定理は何を保証しているのですか

ヘッジに必要な保有量が必ず存在する、ということです。存在の保証であって、求め方は教えてくれません。

なぜブラウン運動だけなのですか

情報の源が1つだからです。ジャンプなど別の源が加わると、足りなくなります。

実務でヘッジできない理由は何ですか

連続的な組み替えができないことと、取引コストです。理論は摩擦が無い世界の話です。

参考文献

  1. Harrison J. M. and Pliska S. R.、Martingales and Stochastic Integrals in the Theory of Continuous Trading、Stochastic Processes and their Applications、1981年、DOI 10.1016/0304-4149(81)90026-0
  2. Karatzas I. and Shreve S. E.、Brownian Motion and Stochastic Calculus、第2版、Springer、1991年

二項ツリーの数値は compute.py により有理数演算で検算済み。ヘッジシミュレーションはシード42で実行。

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