第75回 離散ヘッジと取引コスト ― 現実のヘッジ誤差はどこから来るのか

位置: 第7部 第75回 / 前提: 第67回、第74回 / 数学編: M18 / この回でできるようになること: ヘッジの頻度と取引コストの兼ね合いから、ヘッジ誤差の大きさを見積もることができる
0. 物語 ― 頻度を上げるほど悪くなる
トレーディングデスクでオプションを売った直後、まず考えるのは「どれくらいの頻度でヘッジを組み替えるか」です。教科書の理論では、ポジションを絶え間なく調整し続ければリスクは完全に消えます。だから頻度は高いほどいい、と思うかもしれません。
ところが、売買のたびに手数料がかかります。月に1回の組み替えなら手数料は年間で0.23ほどですが、毎日やれば0.62に膨らみ、1日に4回まで増やすと1.10に達します。オプションの価格が10.45ですから、1日4回のヘッジでは価格の1割以上を手数料だけで失います。
一方、組み替え回数を増やすほど、理論値からのずれ――ヘッジ誤差――は小さくなります。月1回では誤差のばらつきが1.94もあったのが、毎日なら0.49まで縮みます。誤差を減らしたければ頻度を上げたい。しかしコストは回数に応じて増えていく。この2つは逆方向に動きます。
両方を足し合わせて最も損が小さくなる回数を探すと、年150回あたりに折り返し点が見つかります。それより少なければ誤差が大きすぎ、それより多ければコストが食いすぎるのです。
理論どおりに「できるだけ頻繁に」ヘッジした人が、月1回しか動かさなかった人よりも損をする。この逆転がなぜ起きるのか、そしてどこに折り合いの点があるのかを、今回は定量的に明らかにします。
1. 動機 ― 理論どおりにヘッジできない理由
この回を読み終えると、ヘッジの頻度と取引コストの兼ね合いから、ヘッジ誤差の大きさを見積もることができます。
ブラック・ショールズの理論では、デルタを連続的に組み替えることで完全にリスクを消せます。しかし現実には連続的な組み替えは不可能です。1日に1回、あるいは1時間に1回しかポジションを動かせません。しかも毎回の売買には取引コストがかかります。
頻度を上げれば理論に近づき、ヘッジ誤差は小さくなります。しかし取引コストは回数に応じて増えます。誤差とコストは逆方向に動きます。どこで折り合いをつけるかが、離散ヘッジの核心です。
今回は、組み替え回数を変えたときの複製誤差の振る舞いと、取引コストの累積を定量的に分析します。
この記事で証明すること
- THM-DH-1 複製誤差の分散は組み替え回数に反比例して縮みます。標準偏差は回数の平方根に反比例します。
- THM-DH-2 比例的な取引コストのもとでは、コストの累積は組み替え回数の平方根に比例して増えます。
- THM-DH-3 誤差とコストの和を最小にする組み替え回数が存在します。
2. 設定と仮定 ― 離散的な組み替えと取引コスト
仮定を全て書き出します。
- 原資産は幾何ブラウン運動に従います。
。 - 取引コストは売買代金に比例します。比率を
と書きます。 - デルタはブラック・ショールズ式のものを使います。
- 数値実験では乱数のシードを42に固定し、標本路を1万本取ります。
パラメータは
ブラック・ショールズ価格は
ヘッジ誤差とは、ヘッジポートフォリオの満期価値からコールのペイオフを引いたものです。理想的にはゼロですが、離散ヘッジでは正にも負にもなります。
この節のまとめです。原資産はGBM、デルタはBS式、コストは比例的という設定で、離散ヘッジの誤差とコストを分析します。
3. 主張 ― 誤差とコストは逆方向に動く
定理 THM-DH-1(ヘッジ誤差の分散) 等時間間隔でヘッジを
回組み替えるとき、1ステップのヘッジ誤差は であり、全体の誤差の分散は
に反比例して縮む。したがって標準偏差は の平方根に反比例する。
定理 THM-DH-2(取引コストの累積) 比例的な取引コスト
のもとでは、 が大きいとき、初回の建玉と満期の手仕舞いの分( によらない定数)を除いた累積コストの期待値は の平方根に比例して増える。
定理 THM-DH-3(最適な頻度) 誤差とコストの和を最小にする組み替え回数
が存在する。頻度を上げれば誤差は減るがコストは増える。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 誤差の分散とコストの累積を評価する
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第18回「収束の4概念」へ。
THM-DH-2 の証明
1回の組み替えでデルタが
主要項は
1回あたりのコストの期待値は
ここで
THM-DH-1 の証明の骨格
各ステップのヘッジ誤差は、テイラー展開(伊藤の補題の離散版)から
THM-DH-3 の証明の骨格
誤差の標準偏差は
5. 反例 ― 頻度を上げすぎると悪化する
CEX-DH-1: 取引コストで総損益が悪化する
取引コスト
| 回数 | 平均損益 | 標準偏差 | 平均コスト |
|---|---|---|---|
| 12 | |||
| 52 | |||
| 252 | |||
| 1000 |
コストなしでは頻度を上げるほど標準偏差が小さくなりました。しかしコストを入れると、1000回のケースでは平均コストが
CEX-DH-2: 期待値が0でもばらつきが大きい
コストなし、252回の場合のヘッジ誤差の分布を見ます。平均は
つまり、10回に1回はおよそ
CEX-DH-3: 満期直前の誤差の急増
252回の等間隔ヘッジで、満期直前の誤差が前半に比べてどれだけ大きいかを測ります。
| 期間 | RMS誤差 |
|---|---|
| 前半( |
|
| 残り10%( |
残り10%の期間の誤差は前半の
満期直前はデルタが0と1の間を急激に行き来するため、少しの株価変動で保有量が大きく変わります。同じ頻度でヘッジしていると、この変化に追いつけません。
この節のまとめです。コストを入れると頻度を上げすぎた場合に総損益が悪化し、期待値ゼロでもばらつきは大きく、満期直前はガンマの急増で誤差が倍増します。
6. 数値例 ― 組み替え回数を変えて総損益を比べる
誤差の標準偏差と平均コストの和を指標にして、最適な回数を探します。
| 回数 | 誤差 SD | 平均コスト | 合計 |
|---|---|---|---|
| 12 | |||
| 24 | |||
| 52 | |||
| 100 | |||
| 150 | 0.5813 | 0.5039 | 1.0853 |
| 200 | |||
| 252 | |||
| 400 | |||
| 600 | |||
| 1000 |
合計が最小になるのは
: 誤差が支配的で、頻度を上げると改善します。 : コストが支配的で、頻度を上げると悪化します。
コストなし(
コストなしでの標準偏差の比も確認します。
この節のまとめです。誤差は
7. 次回へ ― 1987年が変えたもの
今回は、ブラック・ショールズの理論がそのまま使える世界で、離散性と取引コストだけを考えました。しかし現実のヘッジにはもう一つ大きな問題があります。ブラック・ショールズの仮定そのものが壊れることです。次回(第76回)では、1987年の暴落が市場の構造をどう変えたかを出発点に、仮定が壊れたときに何が起きるかを扱います。
次のマイルストーンまであと 2 本です。
よくある質問
どのくらいの頻度でヘッジすべきですか
コストと誤差の兼ね合いで決まります。日次程度が実務の目安です。
誤差はゼロにできますか
できません。連続的に組み替えられない限り必ず残ります。
満期直前が難しいのはなぜですか
デルタが急激に変わるからです。少し動くだけで必要な保有量が大きく変わります。
参考文献
- Leland H. E.、Option Pricing and Replication with Transactions Costs、The Journal of Finance、1985年、DOI 10.2307/2327554
- Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
数値例は compute.py により乱数シード42、1万本の標本路で計算。

