第76回 ブラック・ショールズの仮定が壊れるとき ― 1987年が変えたもの

位置: 第7部 第76回 / 前提: 第67回、第75回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 市場データのどこにブラック・ショールズの仮定の破れが現れているかを、指摘することができる
0. 物語 ― 1987年の暴落は対数正規分布では起きないはず
天気予報を思い浮かべてみてください。「明日、東京に雪が降る確率は0.1%です」と言われたら、傘だけ持って出かけるでしょう。では「明日、東京に隕石が落ちる確率と同じくらい低いです」と言われた翌日に、本当に隕石が降ってきたら、どうでしょうか。予報の仕組みそのものを疑うはずです。
1987年10月19日、アメリカの株式市場でそれが起きました。代表的な株価指数がたった1日で約23%下落したのです。当時の標準的な計算式に当てはめると、この規模の下落が起きる確率はおよそ10の92乗分の1です。10の89乗年に1回、つまり宇宙の年齢の10の79乗倍の時間を待って、ようやく1回起きるかどうかという水準です。
計算式が間違っていたのでしょうか。式の数学は正しいのです。問題は、式の前提にありました。「株価の変動幅は一定で、値動きは釣鐘型の分布に従う」という前提です。この前提のもとでは、大きな変動はほとんど起こらないことになっています。しかし現実の市場では、前提が予測するよりもはるかに大きな変動がたびたび観察されます。
もう1つ、別の角度からも前提の破れが見えます。もし変動幅が本当に一定なら、異なる条件のオプションから逆算した変動幅は全て同じ値になるはずです。ところが実際に逆算してみると、条件によって値がばらつきます。市場のデータが、前提の誤りを数値で教えてくれているのです。
前提が壊れているなら、その計算式はもう使えないのでしょうか。実は、今でも使われています。ただし使い方が変わりました。「正しい価格を出す道具」から、「市場の価格を共通の言葉に翻訳する道具」へと、役割が変わったのです。この回では、前提のどこがどう壊れているかを、数値で確かめます。
1. 動機 ― 式は正しいのに市場と合わないのはなぜか
この回を読み終えると、市場データのどこにブラック・ショールズの仮定の破れが現れているかを、指摘できます。
ブラック・ショールズ式は、数学としては正しいです。仮定を認めれば、結論は論理的に導かれます。問題は仮定の側にあります。
第67回で導いた式は、次の仮定に支えられていました。ボラティリティは一定。原資産の対数収益率は正規分布に従う。価格はジャンプせず連続的に動く。これらの仮定がすべて成り立つ世界では、式と市場価格は一致するはずです。
1987年10月19日、ダウ工業株30種平均は1日で約 22.6% 下落しました。この日を境に、市場は仮定の破れを無視できなくなりました。今回は、仮定のどこがどう壊れているかを数値で示します。新しいモデルは導入しません。壊れ方を正確に記述することが、次の一歩への準備になります。
この記事で証明すること
- THM-BRK-1 ボラティリティが一定なら、行使価格を変えても市場価格から逆算した値は一致するはずですが、実際には一致しません。
- THM-BRK-2 対数正規分布のもとで 1987年10月の下落が起きる確率を計算すると、宇宙の年齢を超える時間に1回という水準になります。
- THM-BRK-3 仮定の破れは、分布の裾・ボラティリティの変動・ジャンプの3つに整理できます。
2. 設定と仮定 ― 仮定のどれを疑うか
ブラック・ショールズ式の導出で使った仮定を書き出します。どれが後で壊れるかを見るためです。
- 対数正規分布: 原資産の対数収益率
は正規分布に従います。 - 一定のボラティリティ:
は時刻にも原資産価格にも依存しない定数です。 - 連続な価格変動: 価格の経路は連続で、ジャンプ(不連続な変化)はありません。
- 無リスク金利
は一定: 借入も貸出も同じ金利で、満期まで変わりません。 - 取引コストなし: 売買スプレッド、手数料、税はありません。
今回は上の3つ、すなわち対数正規分布、一定のボラティリティ、連続な価格変動に焦点を当てます。金利と取引コストの問題はここでは扱いません。
この回は仮定の破れを示すことが目的で、新しいモデルは導入しません。歴史的な事実は一次資料で確認できる範囲にとどめます。数値は公開された指数の動きに基づく代表的な値を使います。
3. 主張 ― 一定ボラティリティと正規分布が破れている
3つの定理を述べます。
定理 THM-BRK-1(一定ボラティリティとの矛盾) ボラティリティが一定なら、行使価格によらず市場価格から逆算した値は一致するはずである。実際には一致しない。
定理 THM-BRK-2(正規分布との矛盾) 対数正規分布のもとで1987年10月の下落が起きる確率を計算すると、宇宙の年齢を超える時間に1回という水準になる。
定理 THM-BRK-3(壊れ方の分類) 仮定の破れは、分布の裾、ボラティリティの変動、ジャンプの3つに整理できる。それぞれ後の回で対処法を扱う。
THM-BRK-1 と THM-BRK-2 は数値で矛盾を示すことが証明になります。THM-BRK-3 は3つの方向を整理する命題です。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 市場価格から逆算して矛盾を示す
この節は読まなくても記事は完結します。
THM-BRK-1 の証明
ブラック・ショールズ式は、コール価格
ここで
もしボラティリティ
具体的に確認します。
ところが現実の市場では、行使価格ごとに逆算値がばらつきます。典型的なパターンを数値で示します(表の市場価格は、現実に観察されるパターンを模して作った例示の値です)。
| 行使価格 |
逆算した |
理論価格( |
市場価格 | 差 |
|---|---|---|---|---|
| 80 | 0.2300 | 22.1746 | 22.3711 | +0.1966 |
| 90 | 0.2150 | 13.4985 | 13.7649 | +0.2663 |
| 95 | 0.2075 | 9.8727 | 10.0493 | +0.1765 |
| 100 | 0.2000 | 6.8887 | 6.8887 | 0.0000 |
| 105 | 0.1925 | 4.5817 | 4.3712 | -0.2105 |
| 110 | 0.1850 | 2.9065 | 2.5239 | -0.3826 |
| 120 | 0.1700 | 1.0226 | 0.5804 | -0.4422 |
もしボラティリティが本当に一定なら、この表の「逆算した
THM-BRK-2 の証明
ブラック・ショールズの仮定のもとで、原資産の対数収益率は次の分布に従います。
1日の対数収益率に焦点を絞ります。
です。年率
1987年10月19日の下落率は約 22.6% でした。対数収益率に直すと
です。ドリフトは1日分では非常に小さいので
標準正規分布で
1営業日あたりこの確率で起きるとして、何年に1回かを求めます。
宇宙の年齢は約
対数正規分布の仮定は、裾の確率を過小評価しています。現実の市場データでは、正規分布が予測するよりもはるかに大きな変動が観察されます。これは分布の裾が正規分布より厚い、すなわちファットテール(厚い裾)であることを意味します。 ∎
THM-BRK-3 の証明(要点)
THM-BRK-1 と THM-BRK-2 から、ブラック・ショールズの仮定が少なくとも2つの方向で壊れていることがわかりました。これを整理します。
第1の方向: 分布の裾が厚い。 THM-BRK-2 で示したように、正規分布は極端な事象の確率を過小評価します。現実の対数収益率の分布は、正規分布より裾が厚いです。尖度(分布のピークの鋭さと裾の厚さの指標)が正規分布の値 3 を上回ることが多くの実証研究で報告されています。
第2の方向: ボラティリティが変動する。 THM-BRK-1 で示したように、インプライドボラティリティは行使価格ごとに異なります。さらに、同じ行使価格であっても時間とともに変動します。ボラティリティは定数ではなく、それ自体がランダムに動く量です。
第3の方向: 価格がジャンプする。 1987年10月19日の下落は、連続的な価格変動では説明しにくいです。価格の経路が連続なら、22.6% の下落に至るまでに多くの中間的な価格を通るはずです。実際には、取引の中で急激な不連続が生じました。
この3つの方向は独立ではありません。ジャンプがあればファットテールが生じますし、ボラティリティが変動すればやはり裾が厚くなります。しかし対処法はそれぞれ異なります。分布の裾を変えるアプローチ、ボラティリティに構造を入れるアプローチ、ジャンプを明示的に加えるアプローチの3つがあり、後の回で順に扱います。 ∎
この節では、仮定の破れが3つの方向に整理できることを確認しました。
5. 反例 ― それでも式は使われ続けている
CEX-BRK-1: 対数正規分布の仮定が壊れる
1987年10月19日の事実を対数正規分布と突き合わせます。
年率
標準正規分布で
もしこのモデルが正しいなら、宇宙が
CEX-BRK-2: ボラティリティが一定という仮定が壊れる
CEX-BRK-3: それでも式は使われ続ける理由
THM-BRK-1 と THM-BRK-2 でモデルの仮定が現実と合わないことを示しました。では、なぜブラック・ショールズ式は今でも使われているのでしょうか。
答えは、式の使い方が変わったからです。もともとの式は「
逆算して出てくるインプライドボラティリティは、行使価格ごとに異なります。一定ではないので、モデルの仮定とは矛盾しています。しかし、インプライドボラティリティは「市場がその行使価格にどれだけの変動を織り込んでいるか」を1つの数で表します。これは価格そのものよりも比較しやすい量です。
たとえば、異なる満期や異なる原資産のオプションを比べるとき、価格そのものを並べても単位が違って比較しにくいです。インプライドボラティリティに翻訳すれば、同じ「パーセント」という単位で比べられます。ブラック・ショールズ式は、価格を翻訳する共通言語としての役割を果たしています。
モデルが間違っていても道具として使える、というのは一見矛盾しますが、物差しに正確さは必要ないのです。同じ物差しを全員が使っていれば、比較はできます。
この節では、仮定が壊れているにもかかわらず式が使われ続ける理由を確認しました。
6. 数値例 ― 1987年の下落の確率を計算する
THM-BRK-2 の計算を改めてまとめます。
設定: 年率ボラティリティ
1987年10月19日の対数収益率:
標準化:
確率:
頻度:
宇宙の年齢は約
行使価格ごとのインプライドボラティリティ:
| 行使価格 |
逆算した |
|---|---|
| 80 | 0.2300 |
| 90 | 0.2150 |
| 95 | 0.2075 |
| 100 | 0.2000 |
| 105 | 0.1925 |
| 110 | 0.1850 |
| 120 | 0.1700 |
ATM(
この節では、対数正規分布の破れとインプライドボラティリティのばらつきを数値で確認しました。
7. 次回へ ― 歴史を振り返る
今回は、ブラック・ショールズの3つの仮定が現実と合わないことを確認しました。対数正規分布は極端な事象を過小評価し、ボラティリティは一定ではなく、価格はジャンプします。
それでも式は消えませんでした。価格を
次回(第77回)では、一度歴史を振り返ります。バシュリエからブラック・ショールズまでの70年を辿り、なぜこの式がこの形になったのかを見ます。
次のマイルストーンまであと 1 本です。
よくある質問
ブラック・ショールズは間違いだったのですか
モデルとしては現実と合いません。ただし価格を表す共通の言葉として今も使われています。
なぜ間違ったモデルを使うのですか
価格をボラティリティという1つの数に翻訳できるからです。比べるための物差しとして便利です。
改良版はあるのですか
あります。第86回から第88回で、分布の裾の扱い、ボラティリティの構造、ジャンプの導入を順に扱います。
参考文献
- Rubinstein M.、Implied Binomial Trees、The Journal of Finance、1994年、DOI 10.2307/2329207
- Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
数値例は compute.py により検算済み。本文中の値は outputs.json から取得している。

