第47回 完備市場と第二基本定理 ― 価格が一つに決まる条件

第47回 完備市場と第二基本定理 ― 価格が一つに決まる条件

位置: 第5部 第47回 / 前提: 第45回、第46回 / 数学編: M7 / この回でできるようになること: 手元の商品だけでどんな支払いも複製できるかを判定し、できないときは価格の幅を計算できる

目次

0. 物語 ― 資産を増やしても完備にならない

前の2回で手にした道具を振り返ります。第45回では、上がるか下がるかの2通りしかない市場で、株と安全資産を組み合わせればどんな支払いでも再現でき、その値段はただ1つに決まることを見ました。第46回では、「ただ乗り」が存在しない市場なら、割引後の株価を保つ確率がかならず見つかるという定理を確認しました。

道具が揃ったところで、ひとつ問いを立てます。世界が3通りに分かれたらどうなるでしょうか。

3通りの結末がある市場に、安全資産と株が1本あるとします。金利は10%、株の今の値段は100です。1年後の株の値段は、景気によって180、110、80のどれかになります。2通りのときは道具が2つ、未知数が2つで方程式がぴったり解けましたが、結末が3通りなのに道具は2つしかありません。割引後の株価を保つ確率の組み合わせは1通りに絞れず、値段にも幅が出ます。

「道具が足りないなら増やせばよい」と考えるのは自然です。そこで新しい株を1本追加します。この株の1年後の値段は、景気によって235、165、135です。3つの道具で3つの未知数なら、今度こそ答えは1つに決まるはずです。

ところが、この新しい株の値段をよく見ると、安全資産を50口と元の株を1口買ったときの受け取りとまったく同じです。見た目は別の道具ですが、中身はすでにある道具の組み合わせにすぎません。追加しても、再現できる支払いの範囲はまったく広がらないのです。たとえば「結末1で30、結末2で0、結末3で20を受け取る」という支払いは、何本足しても再現できないままです。

値段が1つに決まる市場には、結末の数だけ「本当に独立な」道具が必要です。数ではなく、中身が互いに違うかどうかが鍵になります。この回では、すべての支払いを再現できることと、割引後の株価を保つ確率がただ1つであることが、実は同じ条件であることを証明します。

1. 動機 ― 価格が一つに決まるのはどんな市場か

この回を読み終えると、手元の商品だけでどんな支払いも複製できるかを判定し、できないときは価格の幅を計算できます。

第45回で、2状態モデルでは同値マルチンゲール測度 がただ一つに決まり、あらゆるペイオフの無裁定価格が一つの値になることを見ました。第46回では、同値マルチンゲール測度の存在と無裁定が同値であること(第一基本定理)を確認しました。

しかし状態が3つ以上になると、同値マルチンゲール測度が一つとは限りません。測度が複数あれば、「どの測度で期待値を取るか」によって価格が変わります。つまり無裁定だけでは価格が一つに決まらないことがあります。

では、価格が一つに決まるのはどんな市場でしょうか。答えは「完備な市場」です。完備とは、すべてのペイオフが手持ちの資産で複製できることを指します。今回はこの条件を定式化し、同値マルチンゲール測度の一意性と完備性が同値であることを証明します。これが第二基本定理です。

この記事で証明すること

  • THM-SFT-1 無裁定な有限市場が完備であることと、同値マルチンゲール測度がただ一つであることは同値です。
  • THM-SFT-2 状態数を 、独立な資産数を とすると、市場が完備であることと は同値です。
  • THM-SFT-3 完備でないとき、複製できないペイオフの無裁定価格は、同値マルチンゲール測度の集合の上での割引期待値がつくる開区間に一致します。

2. 設定と仮定 ― 状態数と独立な資産数

仮定を書き出します。

  • 状態は有限個: 。1期間モデル( と )。
  • 資産は有限本: 安全資産(金利 )と、 本のリスク資産。合計 本。安全資産のペイオフは全状態で 。
  • 独立とは: 各資産の満期ペイオフを のベクトルとみたとき、 本のベクトルが線形独立であることをいいます。安全資産のペイオフ も1本と数えます。
  • 取引コストと空売り制約は無い: 任意の実数単位でロング・ショートが可能です。

ペイオフ行列 を定義します。 は の行列で、 は資産 の状態 でのペイオフです。

ポートフォリオ の満期価値は で、これは のベクトルです。ペイオフ が複製可能であるとは、 を満たす が存在することです。

複製可能なペイオフの全体は の行空間 に等しく、その次元は です。市場が完備であるとは、任意の が複製可能であること、つまり であることです。

ここまでの設定をまとめると、完備性は行列 のランクだけで決まります。

3. 主張 ― 完備性と測度の一意性は同値

定理 THM-SFT-1(第二基本定理) 無裁定な有限市場が完備であることと、同値マルチンゲール測度 がただ一つであることは同値である。

定理 THM-SFT-2(完備性の次元条件) 状態数を 、独立な資産数を とすると、市場が完備であることと は同値である。

定理 THM-SFT-3(不完備市場での価格区間) 完備でないとき、複製できないペイオフ の無裁定価格は、同値マルチンゲール測度の集合 の上での割引期待値がつくる開区間

に一致する。

THM-SFT-2 は THM-SFT-1 の別表現です。行列の言葉で書くと証明が見やすくなるため、両方を掲げます。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 線形代数の次元定理から出す

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第7回「ベクトル、行列、内積」へ。

THM-SFT-2 の証明

は 行列で、 本の行ベクトルは線形独立と仮定しています(独立な資産数が )。したがって です。

市場が完備であることは と同値です。 の次元は 、 の次元は ですから、

が成り立ちます。行空間がフルランクになる条件は、行の本数が空間の次元に一致することです。 ∎

THM-SFT-1 の証明

同値マルチンゲール測度 の条件を行列で書きます。 として、

  • for all (同値性)
  • (確率)
  • 各リスク資産 について (マルチンゲール条件)

安全資産の行はペイオフが全状態で なので、マルチンゲール条件は に帰着します。これは確率条件と同じです。よって独立な条件は、リスク資産 本のマルチンゲール条件と確率条件 の合計 本です。

未知数は の 個です。

(完備 測度の一意性)

完備のとき (THM-SFT-2)です。 個の未知数に対して 本の独立な線形方程式があるので、解は一意です。第一基本定理により無裁定のもとで は少なくとも1つ存在するので、ちょうど1つです。

正の確率条件 を心配する必要はありません。第一基本定理が保証する解はすでに全成分が正だからです。

(測度の一意性 完備)

対偶を示します。完備でないとき です。 個の未知数に対して 本の独立な方程式しかないので、解空間の次元は です。したがってマルチンゲール条件を満たす の全体は1次元以上のアフィン部分空間をなします。

第一基本定理により、 を満たす解が少なくとも1つ存在します。この解をアフィン空間内の1点とします。アフィン空間の次元が1以上なので、その点の近傍にも を満たす別の点が取れます。よって同値マルチンゲール測度は2つ以上存在します。 ∎

THM-SFT-3 の証明の要点

証明の完全版は長くなるため、骨格を示します。

ペイオフ が複製可能であれば、価格は で全ての について同じ値になります。複製ポートフォリオの満期価値が全状態で に一致するので、どの測度で期待値を取っても が成り立つからです。

が複製不可能なとき、 は によって異なる値を取ります。もし全ての で同じ値になるとすると、 と同じ期待値を持つ複製可能なペイオフ との差 が全ての で期待値0になり、 が に属することになって も複製可能となり矛盾します。

無裁定価格 の範囲は次のように決まります。 が無裁定であるとは、 を で取引に加えた拡大市場に同値マルチンゲール測度が存在することです。すなわち を満たす が存在することです。 がこの条件を満たす範囲は、 の値域そのものです。

は凸集合で、 は の線形関数なので、値域は区間です。端点は の境界(ある )で達成されますが、その点では同値性が崩れるので端点は含まれません。よって価格の範囲は開区間です。 ∎

5. 反例 ― 資産を増やしても次元が増えないことがある

CEX-SFT-1: 線形従属な資産を足しても複製可能ペイオフは広がらない

「資産を増やせば必ず完備になる」という理解は誤りです。

3状態のモデルに安全資産と株1本の2資産がある市場を考えます。ペイオフ行列のランクは 2 です。ここに株2を追加して3資産にします。

株2のペイオフが だとします。これは安全資産50単位と株1単位を合わせたもの、すなわち

です。既存の資産の線形結合なので、この株2を追加しても行列のランクは 2 のまま変わりません。

ペイオフ は2資産のもとで複製できません。1番目と2番目の状態から が必要ですが、2番目と3番目の状態からは が必要で、矛盾します。株2を追加しても、株2自体が既存の資産で作れるので、この矛盾は解消されません。

ランクが増えなければ、完備には近づきません。

CEX-SFT-2: 完備でも保有量が極端に大きくなりうる

完備であれば理論上は任意のペイオフを複製できます。しかし複製できることと実行が容易であることは別です。

3状態3資産の完備市場で、ペイオフ (状態1でのみ1000を受け取る)を複製します。解は

です。コストは ですが、そのために約 1399 の借入が必要です。最大ペイオフが 1000 なのに、レバレッジは約10倍です。

完備性は「複製のポートフォリオが存在する」ことを保証しますが、それが実行可能かどうかは別の問題です。

CEX-SFT-3: 不完備なら1つの価格を選ぶ根拠がない

不完備市場で の無裁定価格を求めます。同値マルチンゲール測度の集合は でパラメトリゼーションされ、価格は開区間 、すなわち です。

たとえば を選ぶと価格は 、 を選ぶと です。どちらも無裁定ですが、無裁定という条件だけでは、区間のどの点を選ぶべきか決められません。

「とりあえず1つ選ぶ」ことに理論的根拠はありません。区間の外に出れば裁定ですが、内部のどこにいても裁定ではない。ここに不完備市場の本質的な困難があります。

6. 数値例 ― 3状態で資産を足しながら次元を追う

、金利 ()、、株の満期ペイオフ を使います。

ステップ1: 安全資産+株1本(2資産)

ペイオフ行列のランクは 2、状態数は 3 です。 なので不完備です。

同値マルチンゲール測度のマルチンゲール条件は

です。 と合わせて整理すると

となります。 の条件から です。自由パラメータが1つあり、測度は一意ではありません。測度の集合 の次元は です。

ステップ2: 独立な資産を1本追加(3資産・完備)

ペイオフ の株2を追加します。この行ベクトルは安全資産と株1の行ベクトルと線形独立です(ペイオフ行列のランクが 3 に上がります)。 となり完備です。

株2の無裁定価格を とすると、マルチンゲール条件は

です。ステップ1の条件と合わせると が一意に決まります。 のとき

が唯一の解です。

検算: 株1のマルチンゲール条件を確認します。

成り立っています。株2についても

一致します。完備市場では測度が一つに決まることを数値で確認しました。

ステップ3: 従属な資産を1本追加(3資産・不完備のまま)

代わりにペイオフ の株2’を追加します。これは安全資産50単位と株1単位の合成です。ランクは 2 のまま変わらず、不完備のままです。

ペイオフ は依然として複製できません。価格区間は開区間 で、上限は約 20.91 です。

ステップ4: 不完備市場での価格区間

の割引期待値を2つの異なる測度で計算します。

測度

どちらも同値マルチンゲール測度ですが、価格は約2倍異なります。無裁定からは1つの値を選べません。

独立な資産を追加して完備にしない限り、この曖昧さは解消されません。

7. 次回へ ― コールとプットの定義に戻る

今回、無裁定だけでは価格が一つに決まらないことがある、と分かりました。完備であること、すなわち全てのペイオフが複製可能であることが、価格の一意性を保証します。

次回(第48回)はコールとプットの定義に戻り、ペイオフ図の描き方を固めます。オプション価格の理論が使えるのは、複製が可能な市場においてです。その前提を今回で確認したうえで、具体的なペイオフの形を見ていきます。

次のマイルストーンまであと 7 本です。

よくある質問

完備市場は現実に存在しますか

存在しません。取引できる商品の数が、起こりうる状態の数に足りないのが普通です。現実の市場は不完備であり、完備市場は価格付けの理論を組み立てるための理想化です。

不完備だと価格は決まらないのですか

1つには決まりません。無裁定条件は価格の範囲(区間)を示すだけで、その中のどこかは特定できません。区間の外に出ると裁定機会が生じます。

資産を増やせば完備に近づきますか

独立な資産であれば近づきます。既存の資産の組み合わせで作れる資産を足しても、複製できるペイオフの集合は広がらず、何も変わりません。

参考文献

  1. Harrison J. M. and Pliska S. R.、Martingales and Stochastic Integrals in the Theory of Continuous Trading、Stochastic Processes and their Applications、1981年、DOI 10.1016/0304-4149(81)90026-0
  2. Pliska S. R.、Introduction to Mathematical Finance ― Discrete Time Models、Blackwell、1997年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

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