第67回 ブラック・ショールズの仮定を全部並べる ― どれが後で壊れるか

第67回 ブラック・ショールズの仮定を全部並べる ― どれが後で壊れるか

位置: 第7部 第67回 / 前提: 第60回、第66回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: ブラック・ショールズ式の仮定を全部挙げ、どの仮定が崩れると価格やヘッジにどう効くかを整理できる

目次

0. 物語 ― 連続的に取引できないとヘッジが漏れる

トレーディングデスクでオプションを売った直後、最初の仕事は「ヘッジを組む」ことです。株を何株持てばオプションの値動きを打ち消せるかを計算し、その分だけ株を買います。株価が動くたびに持ち高を調整し直せば、理論上、最終的な損得はゼロになります。

ところが「株価が動くたびに」という部分に、大きな前提が隠れています。ヘッジの理論は「いつでも、一瞬の遅れもなく株を売り買いできる」ことを当てにしています。現実にはそうはいきません。ポジションの調整は1日に数回、多くても分単位でしか行えません。

この前提を崩すと何が起きるのか。同じ条件で5000回のシミュレーションを走らせた結果があります。1日1回の調整でも、複製の誤差は標準偏差でおよそ0.5残りました。週に1回まで頻度を落とすと、誤差はおよそ1.0に倍増します。理論上はゼロのはずの誤差が、取引の間隔をあけるだけでこれだけ膨らむのです。

これは「いつでも取引できる」というたった1つの仮定が破れた結果です。ブラック・ショールズの枠組みには、実はこのほかにもあと6つ、合わせて7つの仮定が置かれています。ある仮定が崩れると価格そのものが変わり、別の仮定が崩れるとヘッジが壊れて損失が出ます。この回では7つの仮定をすべて書き出し、それぞれがどこで使われ、崩れたときに何が起きるかを整理します。

1. 動機 ― 式の前に、何を仮定するのかを見る

この回を読み終えると、ブラック・ショールズ式の仮定を全部挙げ、どの仮定が崩れると価格やヘッジにどう効くかを整理できます。

連続時間のオプション価格付けには、1期間モデルとは比べものにならない数の仮定が要ります。仮定はどれも「当たり前」に見えますが、1つでも外れれば結論は変わります。式を導く前に仮定を並べる理由は2つあります。ひとつは、導く途中で「ここでこの仮定を使った」と気づくためです。もうひとつは、現実の市場がどの仮定から離れているかを知るためです。

この回では仮定を並べることが目的で、式そのものは扱いません。仮定を5つの群に分け、それぞれが次回以降の議論のどの段階で使われるかを対応させます。

この記事で証明すること

  • THM-BSA-1 ブラック・ショールズの枠組みは7つの仮定から成り、それぞれが議論のどの段階で使われるかを特定できます。
  • THM-BSA-2 原資産の期待収益率 は価格に現れません。一方、ボラティリティ が一定という仮定は価格に直接効きます。
  • THM-BSA-3 7つの仮定はどれか1つを外しても他は保てます。壊れ方は仮定ごとに異なります。

2. 設定と仮定 ― 7つの仮定を5群に分ける

ブラック・ショールズの枠組みを支える仮定を、性質ごとに5つの群に分けて書き出します。

原資産の従う過程

A1(幾何ブラウン運動) 原資産の価格 は次の確率微分方程式に従います。

ここで はドリフト(期待収益率)、 はボラティリティ、 は標準ブラウン運動です。この過程のもとでは、対数収益率 が正規分布に従います。

A2(ボラティリティは一定) は時刻にも原資産価格にも依存しない定数です。

A1 と A2 を合わせると、原資産の振る舞いは , , の3つの数だけで完全に決まります。

市場の摩擦

A3(取引コストなし) 売買手数料、税、ビッド・アスクスプレッドは存在しません。空売りにも制約がありません。

A4(連続取引) 原資産と安全資産をいつでも、任意の量だけ売買できます。ポートフォリオの組み替えを連続的に行えます。

金利

A5(金利は一定) 無リスク金利 は満期まで一定で、借入と貸出に同じ金利が適用されます。

配当

A6(配当なし) 原資産は配当を払いません。保有に伴うコストも収益もありません。

権利形態

A7(ヨーロピアン型) オプションは満期にのみ行使できます。途中での行使はありません。

以上の7つが仮定の全体です。A1 から A7 のどれが欠けても、結論に影響が出ます。

3. 主張 ― どの仮定がどこで効くか

3つの定理を述べます。

定理 THM-BSA-1(仮定の一覧と役割) ブラック・ショールズの枠組みは7つの仮定 A1–A7 から成り、それぞれが議論のどの段階で使われるかを特定できる。

定理 THM-BSA-2(価格に効く仮定と効かない仮定) 原資産の期待収益率 に関する仮定は価格に現れない。ボラティリティ が一定という仮定は価格に直接現れる。

定理 THM-BSA-3(仮定の独立性) 7つの仮定のうち、どれか1つを外しても他は保てる。壊れ方は仮定ごとに異なり、後の回で個別に扱う。

THM-BSA-1 は仮定と議論の段階の対応を示すことが証明になります。THM-BSA-2 は対応表から読み取れる帰結です。THM-BSA-3 は各仮定の独立性を反例で確認します。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 導出の段階ごとに使う仮定を対応させる

この節は読まなくても記事は完結します。

THM-BSA-1 の証明

ブラック・ショールズの議論は、次の5段階を経ます。各段階で使う仮定を明示します。

段階1: デルタヘッジの構成(使う仮定: A1, A4)

原資産とオプションを組み合わせて、微小時間のあいだ無リスクになるポートフォリオを作ります。この構成には、原資産の変動が (2.1) で記述できること(A1)と、ポートフォリオを連続的に組み替えられること(A4)が必要です。

A4 がなければ、ヘッジ比率を更新するたびに間隔が空き、その間に価格が動いた分だけ複製誤差が残ります。A1 がなければ、そもそもヘッジに必要な比率を計算する出発点がありません。

段階2: イトウの公式の適用(使う仮定: A1, A2)

オプション価格 の微小変化を、原資産の変化で展開します。A1 によって が幾何ブラウン運動に従うので、イトウの公式が使えます。展開すると、 が定数であること(A2)を使って、偏微分方程式の係数が定数になります。

が や に依存すれば、方程式の形が変わります。方程式自体は立てられますが、定数係数で得られる解の形にはなりません。

段階3: 境界条件の設定(使う仮定: A7)

偏微分方程式を解くには境界条件が要ります。ヨーロピアン型(A7)のコールなら です。途中行使があれば境界条件が変わり、方程式の解き方も変わります。

段階4: 割引(使う仮定: A5)

将来の価値を現在に戻すとき、割引因子 を使います。 が一定であること(A5)によって、この因子が確定します。 が変動すれば、割引因子が確率的になり、別の扱いが必要になります。

段階5: 複製の実行(使う仮定: A3, A6)

構成したポートフォリオを実際に取引市場で実行するには、取引コストがないこと(A3)が要ります。コストがあれば、ヘッジ比率を変えるたびにコストが発生し、完全複製のコストが変わります。

配当がないこと(A6)は、原資産の保有期間中にキャッシュフローが発生しないことを保証します。配当があれば、ヘッジポートフォリオに配当収入を織り込む必要があり、議論の構造が変わります。

以上で7つの仮定 A1–A7 がすべて議論のいずれかの段階に対応づけられました。対応をまとめます。

段階 内容 使う仮定
1 デルタヘッジの構成 A1, A4
2 イトウの公式の適用 A1, A2
3 境界条件の設定 A7
4 割引 A5
5 複製の実行 A3, A6

A1 は段階1と段階2の両方で使われ、最も根幹的な仮定です。A2 から A7 はそれぞれ1つの段階に対応しています。 ∎

THM-BSA-2 の証明

期待収益率 が価格に現れないことを示します。

は A1 の (2.1) に登場します。(2.1) を展開すると、 には と の2項が含まれます。段階1でデルタヘッジを組むと、原資産の持ち高を調整して の項を相殺します。このとき、残る項は に比例するリスクのない部分だけになります。

リスクのないポートフォリオの収益率は に等しくなければなりません(そうでなければ裁定が作れます)。この等式から は消えます。直感的に言えば、 は「原資産がどれだけ上がりそうか」という量ですが、複製の議論は「上がっても下がっても同じ価値になるポートフォリオを作る」ことなので、上がる期待の大きさは関係ありません。これは第45回の1期間モデルで主観確率 が消えたことの連続時間版です。

一方、 は消えません。段階2でイトウの公式を適用するとき、 は二次変分 を通じて偏微分方程式の係数に入ります。具体的には、 が方程式の拡散項の係数として残ります。A2 によって が定数であれば、方程式の係数は と の関数として閉じ、解が求まります。

したがって、 は議論の途中で消え、 は最後まで残ります。 ∎

THM-BSA-3 の証明(要点)

7つの仮定がそれぞれ独立に外せることを確認します。各仮定について、それだけを変えて他を保てる状況を挙げます。

  • A1 を外す: 原資産が幾何ブラウン運動でない過程(たとえばジャンプを含む過程)に従わせても、A2–A7 はそのまま保てます。
  • A2 を外す: を時間や価格の関数にしても、A1 の幾何ブラウン運動の形は を関数に置き換えた一般化として成立し、A3–A7 はそのまま保てます。
  • A3 を外す: 取引コストを導入しても、原資産の過程(A1, A2)や金利(A5)は変わりません。
  • A4 を外す: 取引頻度を離散にしても、原資産の連続時間の過程は変わりません。
  • A5 を外す: 金利を確率的にしても、原資産の過程には影響しません。
  • A6 を外す: 配当を導入しても、過程や市場構造は保てます。
  • A7 を外す: アメリカン型にしても、原資産の過程も市場の仮定も変わりません。

いずれの場合も、外した仮定以外はそのまま維持できます。壊れ方は仮定ごとに異なり、後の回で個別に扱います。 ∎

5. 反例 ― 仮定を1つ外すと何が起きるか

3つの反例で、仮定を1つ外したときの影響を数値で確認します。パラメータはすべて , , , , です。

反例 CEX-BSA-1: ボラティリティが一定でないとき

A2(ボラティリティは一定)を外します。

2つの世界を比べます。どちらも平均ボラティリティは ですが、 の配分が異なります。

  • 世界1: (一定)。
  • 世界2: 前半()は 、後半()は 。

平均 は両方とも です。しかし、価格に効くのは平均 ではなく平均 (分散の平均)です。

世界1では

世界2では

実効ボラティリティ(平均分散の平方根)は、世界1で 、世界2で です。コール価格を計算すると

世界1(一定) 世界2(変動)
実効
コール価格

差は です。平均ボラティリティが同じでも、ボラティリティの配分が異なれば価格は変わります。これは が一定でないと、一定を仮定した価格と食い違うことの直接的な例です。

コール価格がボラティリティの増加関数であることがこの差の原因です。平均 が同じでも、 にばらつきがあれば の平均は大きくなり(ジェンセンの不等式)、価格が上がります。

反例 CEX-BSA-2: 連続取引ができないとき

A4(連続的に取引できる)を外します。

コールを売り、デルタヘッジで複製する状況を考えます。モンテカルロ法で 5000 本のパスを生成し、ヘッジの頻度を変えて複製誤差の標準偏差を測ります。

ヘッジ頻度 複製誤差の標準偏差
日次(年252回)
週次(年52回)

連続的にヘッジできれば誤差はゼロになるはずですが、日次でも の誤差が残ります。週次に落とすと に倍増します。

ヘッジの間隔が空くほど、その間に原資産が動いた分だけポートフォリオの価値とオプションの価値がずれます。ずれの大きさは、ヘッジ間隔の平方根にほぼ比例します。 なので、日次の に対して週次は となり、実測の と整合します。

反例 CEX-BSA-3: 価格がジャンプしたとき

A1(幾何ブラウン運動)が含意する連続経路の性質を外します。具体的には、 の時点で原資産が 下落するジャンプを1回入れます。

デルタヘッジを日次で行い、5000 パスの複製誤差を測ります。

ジャンプなし ジャンプあり
複製誤差の平均
複製誤差の標準偏差

ジャンプなしでは平均誤差はほぼゼロですが、ジャンプがあると平均で の損失が出ます。ヘッジを組んだ側が損をしています。

原因は明確です。デルタヘッジは、原資産が微小に動くことを前提に比率を決めています。 の瞬間的な下落は「微小な動き」ではないので、ヘッジ比率が追いつきません。下落前にデルタ分の株を持っていますが、ジャンプで株の価値が一気に下がり、オプション価値の変化を補いきれずに損失が残ります。

3つの反例をまとめると、A2(ボラティリティ一定)を外すと価格が変わり、A4(連続取引)を外すと複製誤差が残り、A1 の連続経路を外すとヘッジが壊れて損失が出ます。

6. 数値例 ― 仮定を崩したときの価格差を測る

数値例のパラメータを再掲します。, , , , です。

仮定と役割の対応表

仮定 群 内容 使われる段階
A1 原資産の従う過程 幾何ブラウン運動 デルタヘッジ、イトウの公式
A2 原資産の従う過程 は一定 イトウの公式
A3 市場の摩擦 コストなし・空売り可 複製の実行
A4 市場の摩擦 連続取引 デルタヘッジ
A5 金利 は一定 割引
A6 配当 配当なし 複製の実行
A7 権利形態 ヨーロピアン型 境界条件

CEX-BSA-1: ボラティリティの時間変動

平均 がともに でも、一定のときのコール価格は 、前半 後半 のときは です。差 は、A2 が外れたことの直接の影響です。

CEX-BSA-2: ヘッジ頻度の影響

日次ヘッジの複製誤差は標準偏差 、週次では です。A4 が成り立たない度合いに応じて、誤差が大きくなります。

CEX-BSA-3: ジャンプの影響

下落のジャンプが1回入ると、日次ヘッジの平均損失は 、標準偏差は です。ジャンプなしの標準偏差 と比べると、誤差の水準が根本的に変わっています。

これら3つの数値は、仮定が外れたときの影響が数値として見えることを示しています。仮定を並べるだけでなく、外したときに「どれくらい壊れるか」を測ることが、仮定を正しく理解するための出発点です。

7. 次回へ ― デルタヘッジから方程式を立てる

今回は7つの仮定を並べ、それぞれが議論のどの段階で必要かを対応させました。期待収益率 が価格に現れないこと、 が一定でないと価格が変わること、連続取引ができなければ複製誤差が残ること、ジャンプがあればヘッジが壊れることを数値で確認しました。

次回(第68回)では、これらの仮定のもとでデルタヘッジを組み、微小時間のポートフォリオ変化からオプション価格の偏微分方程式を立てます。仮定がどこで使われるかを今回並べたので、次回の議論で「ここで A1 を使った」「ここで A4 が効いた」と指させるようになっています。

次のマイルストーンまであと 10 本です。

よくある質問

仮定が現実的でないなら意味がないのですか

基準として意味があります。どの仮定が外れているかを知ることで、ずれの原因を特定できます。仮定を全部知っている人だけが、外れたときの影響を正しく評価できます。

一番危ない仮定はどれですか

ボラティリティが一定という仮定(A2)です。市場の価格はこの仮定が外れていることを示しています。行使価格の異なるオプションから逆算したボラティリティが一致しないことが、その証拠です。

期待収益率は要らないのですか

要りません。複製で価格が決まるので、原資産が上がるか下がるかの見通しは入りません。これは第45回で主観確率が消えたことと同じ構造です。

参考文献

  1. Black F. and Scholes M.、The Pricing of Options and Corporate Liabilities、Journal of Political Economy、1973年、DOI 10.1086/260062
  2. Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年

数値例は compute.py によりモンテカルロ法(シード42固定)で検算済み。

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