第51回 二項ツリーの多期間化 ― 後ろ向き帰納法で価格を作る

第51回 二項ツリーの多期間化 ― 後ろ向き帰納法で価格を作る

位置: 第5部 第51回 / 前提: 第23回、第44回、第45回、第47回 / 数学編: M16 / この回でできるようになること: 多期間の二項ツリーを後ろ向きに計算して、オプションの価格とヘッジの持ち方を求めることができる

目次

0. 物語 ― 前向きに計算すると何が起きるか

新人トレーダーが、3期間分の株価の動きを表にして、オプションの値段を計算しようとしました。株価は100円で、毎期2割上がるか1割下がるかのどちらかです。3期間後に株を100円で買える権利を売るために、いくら受け取ればよいかを知りたかったのです。

新人は時刻ゼロから順番に、つまり前向きに計算を始めました。「まず上がったら120円、そのとき権利の値打ちは……」。ところが、1期後の権利の値打ちは、そこからさらに先の値動きに依存します。先がわからないまま手前を埋めようとしても、数字が決まりません。

困った新人に、先輩は「逆からやれ」と答えました。3期間後の値段は全部わかっています。最終株価がおよそ173円なら73円の得、130円なら30円の得、それ以下なら0円。この確定した数字から1期ずつ手前に戻れば、すべての節点が埋まります。新人が最終的に得た時刻ゼロの値段はおよそ17円でした。

先輩はさらに続けました。「途中で権利を使うかどうかを保有者が選べる商品だったら、前から計算するのは絶対に無理だ。各時点で『今使うか、持ち続けるか』を決めるには、そこから先の値打ちを知っていないといけない。それは後ろからしかわからない」。

前向きの計算が失敗するのは、手前の値段が先の値段に依存しているからです。この回で示すのは、満期から1期ずつ遡る計算がなぜ正しい価格とヘッジの持ち方を同時に与えるか、そしてその手順で途中の資金の出し入れが一切不要になることです。

1. 動機 ― 期間を増やしても同じ論法が使えるか

この回を読み終えると、多期間の二項ツリーを後ろ向きに計算して、オプションの価格とヘッジの持ち方を求めることができます。

第44回・第45回では、1期間2状態モデルで複製ポートフォリオを作り、リスク中立確率 が自然に現れることを見ました。しかし1期間では満期が1つだけで、途中の判断がありません。現実のオプションには満期までに何度もの値動きがあり、ポートフォリオを組み替える機会が何度もあります。

疑問は素朴です。1期間でうまくいった論法を、そのまま何期間にも伸ばせるのか。 答えは「はい」ですが、ひとつ仕掛けがあります。満期から逆向きに1期間ずつ遡る、という順序です。この「後ろ向き帰納法」がなぜ正しいのかを、今回は3つの定理で示します。鍵になるのは自己資金調達という条件です。途中でお金を足さず抜かずに、ポートフォリオを組み替え続ける。これが複製の意味を多期間に拡張する唯一の方法です。

この記事で証明すること

  • THM-BT-1 各節点で1期間の複製を行い、それを満期から遡ってつなぐことで、多期間のペイオフを自己資金調達で複製できます。
  • THM-BT-2 各節点の価格は、次の2つの節点の価格をリスク中立確率で加重平均し、1期間割り引いたものに等しくなります。
  • THM-BT-3 割引後の価格過程は、リスク中立測度のもとでマルチンゲールになります。これは条件付き期待値のタワー則の言い換えです。

2. 設定と仮定 ― 再結合する二項ツリー

期間のモデルを作ります。仮定を全部書き出します。

  • 時間: 。1ステップが1期間です。
  • 上昇率と下落率: 各期で株価は 倍(上昇)または 倍(下落)になります。 は全期間で一定です。
  • 無裁定条件: 各期で が成り立ちます。
  • 再結合: 上がって下がるのと下がって上がるのは同じ節点です。時刻 に上昇 回を経た節点の株価は

です。(実数の積の交換則)なので、経路の順序は株価に影響しません。時刻 には 個の節点があります。

  • 安全資産: 各期で を預けると になります。 は全期間で一定です。
  • 自己資金調達: ポートフォリオを組み替えるとき、資金の追加も引き出しもしません。時刻 のポートフォリオ を時刻 の株価で評価した値が、時刻 の新しいポートフォリオ のコストに等しいことを意味します。式で書くと
  • 摩擦なし: 取引コストはなく、任意の実数単位で売買できます。

再結合のおかげで、 期間のツリーには満期に 個の節点しかありません。再結合しなければ 個になります。この差は後の反例で見ます。

3. 主張 ― 満期から遡れば価格が出る

第45回の1期間モデルから導いたリスク中立確率を、ここでもそのまま使います。

無裁定条件 のもとで です(THM-RNM1-2)。

以下、時刻 に上昇 回を経た節点でのオプション価格を と書きます。

定理 THM-BT-1(多期間の複製) 満期のペイオフ が与えられたとき、各節点 で1期間の複製問題を解き、 から まで遡ってつなぐことで得られる戦略 は、自己資金調達条件 (2.2) を満たし、満期で を複製する。

定理 THM-BT-2(後ろ向き帰納法の式) 各節点 ()でのオプション価格は

で与えられる。ただし は満期のペイオフである。

定理 THM-BT-3(マルチンゲール表現) 割引後の価格過程 は、同値マルチンゲール測度 のもとでマルチンゲールである。すなわち

特に、タワー則を繰り返し適用すると

が得られる。

(3.4) は「満期ペイオフのリスク中立期待値を 期分割り引けば、時刻0の価格になる」と読めます。1期間の THM-RNM1-3 を多期間に自然に拡張した式です。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 各節点で1期間の複製をつなぐ

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第16回「条件付き期待値は射影である」へ。

THM-BT-2 の証明

THM-BT-1 を示す前に、まず THM-BT-2 を先に示します。これは各節点での1期間の価格付けそのものだからです。

任意の節点 に注目します。この節点から1期間後に株価は2つの値を取ります。

現在の節点の株価を と書くと、1期間後の株価は と です。これは第45回の1期間モデルとまったく同じ構造です。

第45回の THM-RNM1-3 をこの1期間モデルに適用します。「ペイオフ」として (上昇時)と (下落時)を使うと、複製コストは

です。 の定義 (3.1) は に依存しません。各期で が同じだからです。これで (3.2) が全ての節点で成り立つことが示されました。 ∎

THM-BT-1 の証明

THM-BT-2 の式 (3.2) を使って、各節点のオプション価格 が全て決まったとします。いま、各節点 で次のポートフォリオを構成します。

デルタの決定。 節点 での株価を とします。1期間の複製条件(第44回 (4.1) と同じ式)から

が決まります。分母の は上昇後の株価と下落後の株価の差 です。 かつ なので、割り算は常にできます。

現金の決定。 複製コスト からデルタ分の株式コストを引いて

とします。これで各節点のポートフォリオ が定まります。

複製の確認。 この が1期間後に を正しく複製することを確認します。上昇時は

に (3.2) を代入し、 に (4.1) を代入して整理します。第45回 THM-RNM1-3 の証明と同じ代数計算により、この値は に等しくなります。下落時も同様に に等しくなります。つまり各節点で1期間の複製が成り立ちます。

自己資金調達の確認。 これが核心です。時刻 の節点 から時刻 の節点 に到達したとします。上で示したように、 は時刻 で を複製します。すなわち

一方、時刻 の新しいポートフォリオのコストは (4.2) より

(4.3)

これは自己資金調達条件 (2.2) そのものです。古いポートフォリオの時価がちょうど新しいポートフォリオの組成コストに等しいので、資金の追加も引き出しも不要です。

満期での複製。 時刻 のポートフォリオ は、上で示したように と を複製します。したがって戦略全体として満期のペイオフ を複製しています。

以上より、後ろ向き帰納法で構成した戦略は自己資金調達かつ を複製します。 ∎

THM-BT-3 の証明

THM-BT-2 の式 (3.2) の両辺を で割ります。左辺は

右辺は

右辺をさらに書き直します。、 ですから

右辺は「時刻 の情報 が与えられたとき、 の のもとでの条件付き期待値」です。なぜなら、 が与えられれば次の1ステップは上昇(確率 )か下落(確率 )の2通りしかなく、上の式はまさにその加重平均だからです。したがって

が成り立ちます。これが (3.3) です。

タワー則による展開。 (3.3) を繰り返し適用します。数学編 M16 のタワー則(、)により

これを 回繰り返すと

最後の等号は、 が時刻0の情報(既知の定数)しか含まないことを使いました。 ですから

これが (3.4) です。1期間の公式 が、 期間では割引が になる形に自然に拡張されました。 ∎

5. 反例 ― 途中で資金が必要になる組み替え

CEX-BT-1: 組み替えをサボると自己資金調達が壊れる

「各節点で複製を独立に解けばよい」のは正しいですが、前の期のデルタをそのまま使い続けるとどうなるでしょうか。第6節と同じパラメータ(、、、、)で確かめます。

時刻0のデルタは (正確には )です。正しい戦略では、時刻1で株が上昇した後、デルタを (正確には )に組み替えます。

ここで、組み替えをサボって のまま持ち続けたとします。時刻1の節点 でのポートフォリオ価値は で変わりません(前のポートフォリオが正しく複製しているため)。自己資金調達を守りつつ間違ったデルタを使うので、現金は に調整されます。

時刻2の結果を見ます。

状態 誤ったポートフォリオの価値 オプション価値 差額
上昇 45.3605 48.7619
下落 17.4966 14.0952

上昇時には 3.4014(正確には )の資金不足が生じ、下落時には同額の余剰が出ます。不足分を補うには外部から資金を注入しなければなりません。これは自己資金調達条件の違反です。

壊れる理由は明快です。 は「 と を複製する」ために計算された値であり、「 と を複製する」には合っていません。各節点で1期間の複製問題を解き直すのは、怠慢ではなく必然です。

CEX-BT-2: 経路に依存するペイオフでは再結合が使えない

再結合ツリーが使えるのは、ペイオフが最終株価だけに依存する場合です。経路の途中の株価にも依存するペイオフ(たとえば株価の算術平均が行使価格を超えた分を受け取る商品)を考えます。

3期間の全8経路を見ます。

経路 平均 ペイオフ
UUU 100 120 144 172.8 134.2 34.2
UUD 100 120 144 129.6 123.4 23.4
UDU 100 120 108 129.6 114.4 14.4
DUU 100 90 108 129.6 106.9 6.9
UDD 100 120 108 97.2 106.3 6.3
DUD 100 90 108 97.2 98.8 0
DDU 100 90 81 97.2 92.05 0
DDD 100 90 81 72.9 85.975 0

UUD、UDU、DUU はいずれも最終株価が 129.6 です。通常のコールなら同じペイオフですが、平均依存のペイオフではそれぞれ 23.4、14.4、6.9 と異なります。再結合ツリーでは、これら3つの経路が1つの節点にまとめられてしまうため、異なるペイオフを区別できません。

経路を区別するためには再結合しないツリーが必要です。満期の節点数は次のように増えます。

期間数 再結合 非再結合
3 4 8
5 6 32
7 8 128

再結合ツリーの節点数は で線形に増えますが、非再結合ツリーでは と指数的に増えます。計算コストの爆発は、経路依存のペイオフを扱う際の本質的な困難です。

CEX-BT-3: 後ろ向きに計算する必然性

今回の3つの定理は、いずれも後ろ向き(満期から時刻0へ)に計算しています。では前向きに、時刻0から満期へ向かって期待値を取ることはできないのでしょうか。

満期に受け取るペイオフが確定している商品(ヨーロピアン型)では、(3.4) が示すように前向きの期待値計算でも同じ答えが出ます。しかし、途中の時点で権利を行使するかどうかを保有者が選べる商品では話が変わります。各時点での判断は将来の情報に依存するため、満期のペイオフだけから前向きに期待値を取っても正しい価格になりません。後ろ向き帰納法だけが、各時点での最適な判断を組み込めます。この点は第52回で具体的に見ます。

反例は言葉で述べるにとどめますが、壊れる仕組みは明確です。前向き計算では「将来どの判断をするか」がまだ決まっていないため、条件付き期待値のタワー則(THM-BT-3)が素直に適用できないのです。

6. 数値例 ― 3期間ツリーを全部埋める

、、、、 のコールオプションで、3期間のツリーを全て計算します。リスク中立確率は です。

株価ツリー

(2.1) から全節点の株価を計算します。

100
90 120
81 108 144
72.9 97.2 129.6 172.8

後ろ向き帰納法によるオプション価格

満期のペイオフ から出発し、(3.2) で遡ります。

0 0 29.6 72.8
0 14.0952 48.7619
6.712 29.932
17.4495

たとえば の計算を追います。(3.2) に 、 を入れると

各節点でのデルタと現金

(4.1) と (4.2) から各節点のポートフォリオを求めます。

節点 (分数) (分数)
0.774
0.522
0.963
0 0
0.9136
1.0

から への変化を見てください。株が上がるとデルタは1に近づき、下がると に下がります。コールが深くイン・ザ・マネーになるほど、複製に必要な株の量が増えるからです。

自己資金調達の確認

各時刻で、前のポートフォリオの時価と新しいポートフォリオのコストが一致することを確認します。

遷移 前のポートフォリオの時価 差額
下落 6.712 6.712 0
上昇 29.932 29.932 0
下落 0 0 0
上昇 14.0952 14.0952 0
下落 14.0952 14.0952 0
上昇 48.7619 48.7619 0

全ての遷移で差額がゼロです。THM-BT-1 の自己資金調達が全節点で成り立っています。

節点 には からの上昇と からの下落の2つの経路で到達しますが、どちらから来てもポートフォリオの時価は に一致します。再結合ツリーの整合性がここに現れています。

7. 次回へ ― いつやめるかを選べると何が変わるか

今回の後ろ向き帰納法は、満期のペイオフだけが確定している商品に対して適用しました。もし保有者が途中の任意の時点で権利を行使できるとしたら、後ろ向き帰納法のステップに「行使するか続けるか」の判断が加わります。次回はこの判断をどう組み込むかを見ます。

次のマイルストーンまであと 3 本です。

よくある質問

なぜ後ろから計算するのですか

満期のペイオフだけが確定しているからです。そこから1期ずつ遡ると、すべての節点が埋まります。

自己資金調達とは何ですか

途中でお金を足したり抜いたりしない、という条件です。これが無いと複製になりません。

期間を増やすと現実に近づきますか

近づきます。期間を細かくした先は第54回で扱います。

参考文献

  1. Cox J. C.、Ross S. A. and Rubinstein M.、Option Pricing ― A Simplified Approach、Journal of Financial Economics、1979年、DOI 10.1016/0304-405X(79)90015-1
  2. Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance I ― The Binomial Asset Pricing Model、Springer、2004年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

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