第86回 スマイル、スキュー、ターム構造 ― BS が間違っている証拠

位置: 第8部 第86回 / 前提: 第76回、第85回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 行使価格と満期ごとのインプライド・ボラティリティの並びから、価格に織り込まれた分布の形を読むことができる
0. 物語 ― 平均的な逆算値を使うと何が起きるか
前回、オプション価格の式を逆に解くと、市場が織り込んでいるボラティリティの値を取り出せることを見ました。この結果は、別の面からも見ることができます。「取り出した値が行使価格によってバラバラだったら、どうするか」という面です。
直感的には、バラバラなら平均を取ればよさそうに思えます。9つの行使価格で逆算した値の平均は約21.4%です。この1つの値を使って、すべての行使価格のオプション価格を一括で計算してみます。
結果は、市場の価格と合いません。ある行使価格では市場より約0.24円高く、別の行使価格では市場より約0.17円安く出ます。たかが0.2円の誤差に見えるかもしれませんが、大量の取引を扱うディーラーにとっては、この程度のずれが毎回同じ方向に積み重なれば致命的です。しかもこのずれには規則性があります。株価に近い行使価格では高く出すぎ、株価から遠い行使価格では安く出すぎるのです。
なぜ平均ではだめなのでしょうか。それは、行使価格ごとに異なる逆算値の並びが、市場が見ている「将来の価格の散らばり方」をそのまま映しているからです。低い行使価格の逆算値が特に高いのは、市場が大幅な下落を想定より起こりやすいと見積もっていることの表れです。平均を取ると、この情報が潰れてしまいます。
今回のもう1つの発見は、オプション価格の曲がり方から、市場が見ている将来の分布そのものを取り出せることです。取り出してみると、理論が仮定する分布より、大きな下落が起こる領域の確率が厚くなっており、最も深い下落の領域では2倍以上になっています。逆算値の並びは、式の仮定が現実と合わないことの直接的な証拠であり、同時に、市場が本当はどんな分布を見ているかを教えてくれる手がかりでもあります。
1. 動機 ― 逆算値が一致しないという事実
この回を読み終えると、行使価格と満期ごとのインプライド・ボラティリティの並びから、価格に織り込まれた分布の形を読むことができます。
第85回で、市場のコール価格から BS 公式を逆に解くことで、ボラティリティの逆算値
ところが現実の市場でこの逆算を行うと、行使価格ごとに異なる値が返ってきます。
この不一致は BS の5つの仮定のうち「ボラティリティが定数」という仮定が現実と合わないことの直接的な証拠です。今回は、この不一致が何を意味するのかを3つの定理で明らかにします。
この記事で証明すること
- THM-SM-1 ボラティリティが一定なら、逆算値はすべての行使価格で同じ値になります。一致しないことは、BS の仮定が現実と合わないことを示します。
- THM-SM-2 同じ満期のコール価格を行使価格について2回微分すると、リスク中立測度のもとでの満期価格の密度が得られます(Breeden-Litzenberger の公式)。
- THM-SM-3 逆算値の並びは任意ではなく、コール価格の単調性と凸性から制約を受けます。制約を破る並びには裁定が存在します。
2. 設定と仮定 ― 同じ満期で行使価格を並べる
以下の仮定のもとで議論を進めます。
- 原資産: 配当なし。現在価格
。 - 金利: 無リスク金利
は定数。割引係数 。 - コール価格: 同じ満期
のコール価格 が、行使価格 の連続関数として観測できる。 - 数値微分:
の についての微分は数値的に(有限差分で)評価する。 - BS 公式: 第70回の結果を使う。
は について狭義単調増加(第85回)。
数値例では
3. 主張 ― 価格の曲がり方が分布を教えてくれる
定理 THM-SM-1(スマイルの存在は仮定の否定) 原資産の価格過程が幾何ブラウン運動に従い、ボラティリティ
が定数であるならば、任意の行使価格 に対して逆算値 は に一致する。逆に、 が によって異なるならば、ボラティリティ一定の仮定は現実と合わない。
定理 THM-SM-2(暗黙の分布、Breeden-Litzenberger) コール価格
が について2回微分可能であるとき、リスク中立測度 のもとでの満期価格 の密度関数 は で与えられる。
定理 THM-SM-3(無裁定条件) 無裁定のもとで、コール価格
は について狭義単調減少かつ凸でなければならない。逆算値の並びがこの凸性を破る場合、バタフライ・スプレッドにより裁定が存在する。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 2回微分が密度になることを示す
この節は読まなくても記事は完結します。
THM-SM-1 の証明
BS 公式のもとでは、コール価格は
で与えられます。ここで
市場価格
を
したがって
THM-SM-2 の証明
コール価格はリスク中立測度
と書けます。
被積分関数に含まれる
右辺は
微分と積分の順序交換が成り立つためには
が得られ、(3.1) が示されました。 ∎
THM-SM-3 の証明(要点)
コール価格の単調性と凸性は無裁定から従います。要点を示します。
単調性:
凸性: 行使価格
が全ての
です。凸性が破れた場合、バタフライ・スプレッド(
5. 反例 ― 凸性を破ると裁定になる
CEX-SM-1: 凸性の破れとバタフライ裁定
逆算値の並びは自由に決められるわけではありません。コール価格の凸性が破れると裁定が生じることを数値で確認します。
で、凸性が成り立っています。
ここで
となります。バタフライを組む(
CEX-SM-2: スキューは一時的な歪みではない
1987年のブラック・マンデー以前は、逆算値の形は比較的対称でした。しかし1987年以降、株式市場では低い行使価格の逆算値が高い行使価格より恒常的に高い形(スキュー)が観測されています。
数値例で使った逆算値を見ると、
CEX-SM-3: 平均的な逆算値では価格が合わない
「行使価格ごとに異なるなら平均を取ればよい」という発想は機能しません。9つの行使価格の逆算値の平均は
| 市場価格 | 平均値による価格 | 誤差 | |
|---|---|---|---|
| 80 | 22.4281 | 22.2582 | +0.1700 |
| 95 | 10.0587 | 10.2071 | $-$0.1484 |
| 105 | 4.7415 | 4.9791 | $-$0.2376 |
| 120 | 1.3126 | 1.2642 | +0.0484 |
特に ATM 付近とアウト・オブ・ザ・マネーで誤差が大きく、ヘッジの精度に直結します。
凸性を破る逆算値の並びには裁定が存在し、平均値で代用してもすべての行使価格を同時に合わせることはできません。
6. 数値例 ― 暗黙の密度を数値で取り出す
| 80 | 85 | 90 | 95 | 100 | 105 | 110 | 115 | 120 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 23.71% | 22.23% | 21.30% | 20.79% | 20.57% | 20.57% | 20.75% | 21.12% | 21.69% | |
| 22.43 | 17.91 | 13.73 | 10.06 | 7.05 | 4.74 | 3.10 | 2.01 | 1.31 |
低い
暗黙の密度の抽出
定理 THM-SM-2 に従い、コール価格の2階の有限差分を計算して密度を取り出します。
対数正規分布との比較
BS の仮定が正しければ、
| 暗黙の密度 | 対数正規密度 | 比率 | |
|---|---|---|---|
| 60 | 0.00062 | 0.00007 | 9.24 |
| 65 | 0.00084 | 0.00039 | 2.15 |
| 70 | 0.00141 | 0.00151 | 0.93 |
| 75 | 0.00313 | 0.00423 | 0.74 |
| 80 | 0.00707 | 0.00903 | 0.78 |
| 100 | 0.02948 | 0.02729 | 1.08 |
| 120 | 0.01095 | 0.01174 | 0.93 |
暗黙の密度を行使価格で積分すると
7. 次回へ ― サーフェスに完全に合わせる
逆算値が行使価格によって異なるという事実は、BS の仮定の破れを示していますが、同時に市場が見ている「真の分布」への手がかりでもあります。
次回の第87回では、この行使価格方向と満期方向の2つの軸をまとめたボラティリティ・サーフェスに対して、モデルを完全に合わせるとどうなるかを見ます。
次のマイルストーンまであと 2 本です。
よくある質問
なぜスマイルと呼ぶのですか
逆算値を行使価格の順に並べると、両端が高く中央が低い形になるからです。株式では片側が高い形が多く、スキューと呼ばれます。
市場が間違っているのですか
違います。モデルの仮定が合っていないだけです。市場価格のほうが現実を反映しています。
暗黙の密度とは何ですか
市場価格から逆算した、満期の価格の分布です。正規分布より下落側の裾が厚くなっています。
参考文献
- Breeden D. T. and Litzenberger R. H.、Prices of State-Contingent Claims Implicit in Option Prices、The Journal of Business、1978年、DOI 10.1086/296025
- Gatheral J.、The Volatility Surface、Wiley、2006年
数値例は compute.py により浮動小数点演算で計算。乱数は使用していない。

