第25回 独立増分とランダムウォーク ― 一歩ずつ足すだけのモデル

位置: 第3部 第25回 / 前提: 第19回、第24回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: ランダムウォークの価格の散らばりが時間の平方根で広がることを、計算で確かめることができる
0. 物語 ― 平均に戻るはずだという期待
「先輩、このチャートおかしくないですか」。新人トレーダーが画面を指さしました。「この銘柄、上がる確率と下がる確率は半々のはずなのに、ずっとマイナス側にいます。1万回のうち7500回以上、片方に偏りっぱなしです」。
先輩は椅子を回して画面をのぞき込みました。「壊れてないよ。上がるか下がるかが完全に五分五分でも、片側に7500回以上とどまることはふつうにある」。
「でも、長く続ければ平均に戻るんじゃないですか。大数の法則ってそういう意味でしょう」。
「よくある誤解だ。大数の法則が言っているのは、1回あたりの平均がゼロに近づくということであって、位置そのものがゼロに戻るとは言っていない。1万回動いたとき、位置の散らばりの幅はおよそ100だ。1回あたりに直せば100割る1万でほぼゼロだから、平均は確かにゼロに近づく。でも位置自体は100のスケールで散らばっていて、ゼロに引き戻す力なんてどこにも働いていない」。
新人はシミュレーションを3本走らせてみました。1万歩のウォークの最終位置はマイナス56、マイナス86、プラス28。2本目は全体の75パーセント以上をマイナス側で過ごしていました。
「本当だ。ゼロに戻る力なんてない……」。
先輩はうなずきました。「位置の散らばりは、時間そのものではなく、時間の平方根で広がる。100歩で幅が10なら、400歩では40ではなく20だ。この法則を支えているのは、独立な増分の散らばりが足し算になるという、たった一つの性質だよ」。
1. 動機 ― 一歩ずつ足すだけで何が起きるか
この回を読み終えると、ランダムウォークの価格の散らばりが時間の平方根で広がることを、計算で確かめることができます。
コインを投げて、表が出たら1歩右へ、裏が出たら1歩左へ進みます。これを繰り返すだけのモデルがランダムウォークです。単純すぎるように見えますが、このモデルから驚くほど多くの結果が出ます。
100歩歩いたときのばらつきは100ではなく
今回は増分を足すだけの操作から、分散の加法性、マルコフ性、再帰性という3つの性質を導きます。ここで確立する「ばらつきは時間の平方根で広がる」という感覚は、第54回・第55回で連続時間のモデルに進むときの土台になります。
この記事で証明すること
- THM-RW-1 独立同分布の増分を
回足したランダムウォークは、期待値が に比例し、分散も に比例します。したがって標準偏差は に比例します。 - THM-RW-2 ランダムウォークの将来の分布は、現在の値だけで決まり、そこに至る経路には依存しません。
- THM-RW-3 1次元の対称なランダムウォークは、確率1で出発点に戻ります。ただし戻るまでの平均時間は無限大です。
2. 設定と仮定 ― 独立な増分を並べる
ランダムウォークの定義を書き出します。
- 増分:
は独立で同じ分布に従う確率変数です。各ステップの時間幅は等しいとします。 - 初期値:
とします。 - ランダムウォーク:
歩目の位置を
で定めます。
特に、
対称ランダムウォークの場合、増分の期待値と分散は
です。以下ではこの値を具体的に使います。
連続時間への極限は第54回と第55回に送ります。今回は離散の世界に集中します。
3. 主張 ― ばらつきは時間の平方根で広がる
3つの定理を正確に述べます。
定理 THM-RW-1(増分の期待値と分散)
を独立同分布の確率変数とし、 とする。このとき が成り立つ。したがって
である。
定理 THM-RW-2(マルコフ性)
をランダムウォークとする。 の条件付き分布は、 のうち の値だけに依存し、 には依存しない。すなわち が任意の
と について成り立つ。
定理 THM-RW-3(対称ウォークの再帰性)
が確率 で を取る1次元対称ランダムウォーク に対し、 となる が存在する確率は1である。一方、 (初回帰還時刻)は を満たす。
THM-RW-1 が言っているのは、独立な増分を足すと、ばらつきは時間に比例して増えるが、標準偏差は時間の平方根にしか比例しないということです。これは「分散が足し算になる」という独立性の帰結です。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 分散の加法性から出す
この節は読まなくても記事は完結します。
THM-RW-1 の証明
期待値の線形性は、独立性がなくても成り立ちます。
最初の等号は
分散の計算には独立性が必要です。まず分散を定義に従って展開します。
右辺の2乗を展開します。
ここで、交差項の期待値を計算します。
独立性を使ったのはこの1行です。期待値が積に分かれるのは、独立な確率変数の積の期待値が期待値の積に等しいという性質(第19回)によります。そして
(2.3) の期待値を取ると、交差項が (2.4) により全て消えるので
最後の等号では
標準偏差は分散の正の平方根ですから
が得られます。 ∎
証明の核心は (2.4) の1行です。独立だから交差項が消える。消えるから分散が足し算になる。 足し算だから
対称ランダムウォークの場合は
THM-RW-2 の証明
したがって
右辺で条件に効くのは
が成り立ちます。これがマルコフ性です。 ∎
マルコフ性は「将来の行き先は今どこにいるかだけで決まり、どの道を通ってきたかは関係ない」と言っています。これは増分が独立であることの直接の帰結です。
THM-RW-3 の証明(要点)
この定理は proof_policy: sketch に従い、要点を全て示します。
再帰性(確率1で戻る)の要点。
スターリングの近似
です。もし出発点に戻らない確率が正(
平均帰還時間が無限大であることの要点。
初回帰還時刻
であることが知られています。スターリングの近似を適用すると
この「確率1で起きるが、平均すると無限に時間がかかる」という性質は直感に反します。数値実験でも、初回帰還時刻の中央値は2(すぐ戻る場合が多い)ですが、平均は中央値よりはるかに大きくなります。裾の重い分布の典型例です。
5. 反例 ― 平均に戻る力は働いていない
CEX-RW-1: ばらつきは時間に比例しない
「100歩で10ずれるなら、400歩では40ずれるはず」という直感は間違いです。THM-RW-1 が示す通り、分散が
数値実験で確認します。10万本のウォークを生成し、最終位置の標準偏差を計算しました。
| 実測 SD | 理論値 |
比 | |
|---|---|---|---|
| 100 | 10.0054 | 10.0 | 1.000541 |
| 10,000 | 100.2544 | 100.0 | 1.002544 |
実測値は理論値にきわめて近く、
時間を4倍にした場合も見ます。
CEX-RW-2: 平均に戻るはずだ、という期待
「ランダムウォークは0の周りをうろうろするものだ」という直感も危険です。期待値は確かに0ですが、個別の経路は片側に大きく偏った状態が長く続きます。
1万歩のウォークを3本生成し、最終位置と「同じ符号にいた最長連続期間」を調べました。
| 経路 | 最終位置 | 同じ側にいた最長期間 |
|---|---|---|
| 1 | 5,360 歩 | |
| 2 | 7,576 歩 | |
| 3 | 3,761 歩 |
経路2では、1万歩のうち7,576歩――全体の75%以上――で同じ側にいました。「大数の法則があるから、長く見れば平均に戻るはず」という期待は、大数の法則の誤用です。大数の法則は
CEX-RW-3: 独立性を外すと分散が変わる
THM-RW-1 の証明では (2.4) で交差項が消えることが核心でした。増分が独立でなければ交差項は消えず、分散の公式が壊れます。
これを数値で確認します。増分が前のステップと相関
| 分散 | |
|---|---|
| 独立( |
99.15 |
| 相関あり( |
179.41 |
| 比(相関あり/独立) | 1.8095 |
相関がある場合、分散は独立の場合の約1.81倍になりました。
6. 数値例 ― 1万歩のウォークを3本描く
対称ランダムウォークの理論値と数値実験の結果をまとめます。
期待値と標準偏差:
対称ランダムウォーク(
再帰性:
1,000歩以内に出発点に戻ったウォークの割合は 97.2% でした。戻った回数の平均は 24.04 回です。初回帰還ステップの中央値は 2.0(すぐ戻る場合が多い)ですが、平均は 27.4 です。第1四分位は 2.0、第3四分位は 10.0 で、分布の裾が非常に重いことがわかります。
中央値と平均のこの乖離こそが、
7. 次回へ ― 公平な賭けを数式にする
ランダムウォークの3つの性質――分散の加法性、マルコフ性、再帰性――を見ました。中でも「期待値が変わらない」という性質は特別です。対称ウォークでは
次回(第26回)では、この「条件付き期待値が変わらない」という性質を取り出して、マルチンゲールという概念を定義します。マルチンゲールは第5部と第6部の全体をつなぐ鍵概念です。
次のマイルストーンまであと 17 本です。
よくある質問
ランダムウォークは株価のモデルですか
最も単純な出発点です。現実の株価はもっと複雑ですが、この形を土台にして改良していきます。
長く続ければ平均に戻りますか
戻りません。確率1で出発点を通りますが、そこに落ち着くわけではなく、通り過ぎていきます。
なぜ時間の平方根なのですか
分散が足し算になるからです。標準偏差は分散の平方根なので、時間の平方根に比例します。
参考文献
- Feller W.、An Introduction to Probability Theory and Its Applications Volume 1、第3版、Wiley、1968年
- Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance I ― The Binomial Asset Pricing Model、Springer、2004年
数値例は compute.py によりシード固定のもとで計算済み。

