第17回 確率空間とは何か ― 起こりうる世界の全集合から始める

第17回 確率空間とは何か ― 起こりうる世界の全集合から始める

位置: 第3部 第17回 / 前提: 第3回、第6回 / 数学編: M12 / この回でできるようになること: 金融の問いを「起こりうる世界」と「確率を付けられる出来事」に書き分けて、曖昧さなく立てることができる

目次

0. 物語 ― 確率0の出来事も起こる

リスク管理の現場で、こんな会話が交わされることがあります。「この銘柄が横ばいで終わる確率はゼロに近いから、シナリオから外していい」。株価が上がるか下がるかの二択で考えているとき、横ばいという結果に確率ゼロを割り当てるのは自然です。確率ゼロの結果を取り除いても、残りの計算は何も変わりません。上がる確率は2分の1、下がる確率も2分の1。横ばいを加えても加えなくても、同じ数字が出ます。

ところが、株価が「上がるか下がるか」の二択ではなく、90円から120円のあいだの好きな値を取りうるモデルに切り替えた途端、話がひっくり返ります。「ちょうど105円で終わる」確率はゼロです。しかし105円で終わることは実際に起こりえます。もし「確率ゼロだからシナリオから外す」をここでやると、あらゆる具体的な株価を外すことになり、何も残りません。

確率がゼロであることと、その出来事が絶対に起こらないことは、同じではないのです。有限個の結果しかない世界では区別する必要がありませんが、連続的な値を扱い始めると、この違いが正面から効いてきます。この回では、確率を正しく語るための土台を3つの部品に分解して、曖昧さのない形で組み立てます。

1. 動機 ― 確率を扱う前に、何が起こりうるかを書き出す

この回を読み終えると、金融の問いを「起こりうる世界」と「確率を付けられる出来事」に書き分けて、曖昧さなく立てることができます。

株価が明日どうなるかを議論するとき、まず必要なのは「どんな結果がありうるか」の一覧表です。「上がる」と「下がる」の2通りなのか、「大きく上がる」「少し上がる」「少し下がる」「大きく下がる」の4通りなのか。ここを決めないまま「上がる確率は60%」と言っても、60%が何に対する60%なのかが曖昧です。

確率は、起こりうる結果の集合と、その集合の中から確率を割り当てる対象を選ぶ仕組みと、実際の確率の値の3つが揃って初めて機能します。この3点セットを確率空間と呼びます。今回は、この確率空間を定義し、確率が満たすべき最小限の性質を証明します。

この記事で証明すること

  • THM-PS-1 確率測度の有限加法性から単調性が導かれます。 が に含まれるとき、 は 以下です。
  • THM-PS-2 2つの事象について、 が成り立ちます(包除原理)。
  • THM-PS-3 標本空間が有限なら全部分集合を事象にできますが、無限の場合は事象の族を制限する必要があります。

2. 設定と仮定 ― 標本空間と事象と確率の3点セット

確率空間を構成する3つの要素を、金融の例で順に定義します。

標本空間 。起こりうる結果を1つ残らず、重複なく並べた集合です。1期間2状態の株価モデルでは

です。 は「株価が上がる世界」、 は「株価が下がる世界」を表します。 のとき、、 とします。

事象の族 。 の部分集合のうち、確率を割り当てる対象として選んだものの集まりです。 が有限のときは、全ての部分集合を事象にできます。 のべき集合は

の4つです。 なので です。

確率測度 。事象の族 の各要素に 以上 以下の数を割り当てる関数で、次の3つを満たします。

  • 非負性: 任意の事象 に対し 。
  • 全体の確率: 。
  • 有限加法性: ならば 。

2状態モデルで 、 と置くと、全ての事象に確率が定まります。

事象 確率

組 を確率空間と呼びます。この3つが揃って初めて「確率」を語る土台が整います。

3. 主張 ― 確率が満たすべき最小限の性質

先に定義した3つの公理(非負性・全体の確率・有限加法性)から、いくつかの基本的な性質が導けます。ここでは単調性と包除原理を正確に述べます。

定理 THM-PS-1(確率の単調性) 確率空間 において、 が を満たすならば、

である。

定理 THM-PS-2(包除原理) 確率空間 において、任意の に対し、

が成り立つ。

定理 THM-PS-3(事象の族を制限する必要性) 標本空間 が有限であれば、 として の全部分集合(べき集合 )を取っても矛盾は生じない。しかし が非可算無限のときには、有限加法性を可算個の排反な事象にまで強めた公理(可算加法性)を課すと、全ての部分集合に対してそれを満たす確率測度を定義できない場合がある。そのため、事象の族を 加法族として適切に制限する必要がある。

3つの定理は確率空間の基本装備です。THM-PS-1 と THM-PS-2 は公理から直接証明し、THM-PS-3 は結論だけ述べて詳細を数学編 M12 に送ります。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 加法性から単調性と包除原理を出す

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第12回「なぜ測度論が必要なのか」へ。

THM-PS-1 の証明

とします。このとき を2つの排反な部分に分解できます。 に入る部分と、 には入るが には入らない部分です。後者を と書きます。

の右側が成り立つのは、 の定義が「 に属するが には属さない要素」だからです。 と に共通する要素は存在しません。

この分解に有限加法性を適用します。 と が排反なので

が成り立ちます。確率の非負性から です。したがって の右辺は 以上であり

を得ます。 ∎

この証明で使ったのは、有限加法性と非負性の2つだけです。直感的には「大きな集合の確率は、その中の小さな集合の確率以上」ですが、それを公理から正確に導きました。

THM-PS-2 の証明

を排反な部分に分解します。 にだけ属する部分、 にだけ属する部分、両方に属する部分の3つです。ただし加法性を使いやすい形にするために、次のように2段階で分解します。

第1段階: を と「 のうち に入らない部分」に分けます。

は の要素のうち に属さないものだけを集めたものなので、 とは排反です。有限加法性を適用して

を得ます。

第2段階: を と で表します。 自体を「 にも入る部分」と「 に入らない部分」に分けると

です。 に属する要素は にも にも属し、 に属する要素は に属するが には属しません。この2つは排反ですから、有限加法性により

が成り立ちます。 について解くと

です。

結合: を に代入します。

これが です。 ∎

包除原理の核心は、 と の重なりを二重に数えてしまうのを で差し引く、という操作です。この証明では二重計算を避けるために、まず から と重なる部分を取り除き()、次に取り除いた量を復元する()という手順を踏みました。

THM-PS-3 について

が有限なら、全ての部分集合を事象にしても矛盾は起きません。 のとき部分集合は 個あり、各 に 、 を満たす値を割り当てれば、任意の部分集合 に で確率を定義できます。有限加法性も自動的に満たされます。

問題は が非可算無限のとき(たとえば株価が連続的な値を取りうるとき)です。このとき、有限加法性を可算個の排反な事象にまで強めた性質(可算加法性)を要求したうえで、全ての部分集合に確率を定義しようとすると、矛盾が生じる場合があります。連続的な値を扱う確率論ではこの強い性質が欠かせないため、制限が必要になります。そのため、確率を割り当てる対象をべき集合全体ではなく、適切に制限した集合の族( 加法族)に限定する必要があります。詳細は数学編 M12 で扱います。

ここでの要点は、有限の株価モデルでは 加法族を意識する必要はなく、全部分集合を事象として扱える、ということです。

5. 反例 ― 標本空間の取り方は1通りではない

反例 CEX-PS-1: 同じ株価を2通りの標本空間で書く

標本空間の選び方は、同じ現象に対しても1通りではありません。

の株が満期に か になるモデルを考えます。株価だけに注目するなら の2状態で十分です。しかし「出来高が多いか少ないか」も区別したければ、4つの状態が必要です。

状態 意味
株価上昇+出来高大
株価上昇+出来高小
株価下落+出来高大
株価下落+出来高小

4状態モデルで「株価が上がる」事象は です。その確率は

です。同様に「株価が下がる」事象 の確率は

です。2状態モデルで 、 と置いたのと同じ値が復元されます。

ここが重要です。**標本空間を細かくしても、粗い方の事象の確率は変わりません。**ただし4状態モデルでは「株価が上がりかつ出来高が多い」のような、2状態モデルでは表現できない事象に確率を割り当てられます。 の選び方は「何を区別したいか」で決まります。

反例 CEX-PS-2: 有限なら全部分集合に確率を与えられる

が有限のとき、部分集合の個数は です。

| | 部分集合の個数 | |—|—| | | | | | | | | | | | |

有限である限り、これら全てに矛盾なく確率を割り当てられます。各 に非負の重みを与え、合計を1にすれば、任意の部分集合の確率は要素の重みの和で定義できるからです。

が非可算無限になると事情が変わります。たとえば株価が の任意の実数値を取りうるモデルでは、 です。このとき、可算個の排反な事象についても加法性を要求すると、全ての部分集合に「長さに比例した確率」を矛盾なく割り当てることができないことが知られています。詳細な構成は数学編 M12 に譲りますが、ここでは「有限なら気にしなくてよい」「無限では注意が要る」という使い分けを押さえてください。

反例 CEX-PS-3: 確率0の事象は起こらない、とは限らない

有限の では、 の状態があれば、その状態を から取り除いても残りの確率は変わりません。

たとえば ( は「横ばい」)で 、、 とします。事象 の確率は

で、 だけの確率と同じです。 を取り除いた で確率空間を作り直しても、全ての計算結果は変わりません。有限の世界では「確率0 = 起こらない」と考えて差し支えありません。

しかし株価が連続的な値を取る場合、話が変わります。株価が の一様分布に従うとすると、 は です。しかし は起こりうる結果です。連続的な値では「確率0だが起こる」という状況が普通に現れます。確率0と不可能は同じではないのです。

6. 数値例 ― 2状態と4状態で同じ株価を書いてみる

4状態モデルで包除原理を検証します。次の3つの事象を定義します。

  • : 株価が上がる。
  • : 出来高が多い。
  • : 株価と出来高の一方だけが好調。

3組の和事象について、包除原理の両辺を突き合わせます。

組 右辺の計算 直接 一致
Yes
Yes
Yes

右辺(公式)と左辺(直接計算)が全ての組で一致しています。

の直接計算を確認します。 で

です。公式の側は で、確かに一致します。

単調性(THM-PS-1)も数値で確認します。 に対し

です。 であり、 の構造がそのまま見えています。

7. 次回へ ― 起こりうる世界に数字を貼る

確率空間 は、確率を語るための最小限の舞台です。次回(第18回)では、この舞台の上に「確率変数」を乗せます。 が決まったときに株価がいくらになるか、を一つの関数として捉える道具です。確率変数が定義されれば、期待値や分散といった量を厳密に扱えるようになります。

次のマイルストーンまであと 25 本です。

よくある質問

なぜ標本空間をわざわざ書くのですか

何が起こりうるかを決めないと確率を割り当てられないからです。曖昧なまま計算すると、途中で数が合わなくなります。

σ加法族は必要ですか

有限の世界では気にしなくて大丈夫です。連続的な値を扱い始めると、どの集合に確率を与えるかを決める必要が出てきます。

確率0は起こらないという意味ですか

有限の世界ではそう考えて構いません。連続的な値では、起こるけれど確率0、という状況が普通に現れます。

参考文献

  1. 伊藤清、確率論、岩波書店、1991年
  2. Williams D.、Probability with Martingales、Cambridge University Press、1991年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。

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