位置: 第5部 第43回 / 前提: 第2回、第16回、第17回 / 数学編: なし / この回でできるようになること: 株と安全資産だけの市場で、裁定が起きるかどうかを数値の条件で判定できる
目次
0. 物語 ― 金利が高すぎると株を持つ理由が消える
ある新人トレーダーが、株と預金だけの単純な市場で最初の取引をしました。株の値段は100円。1年後には120円に上がるか、90円に下がるか、どちらかしか起こりません。一方、銀行に預けると年25%の利息がつきます。100円を預ければ1年後に125円です。
新人は株が上がると予想して、100円で株を1株買いました。ところが先輩はこう言います。「その株を持つ理由がない。上がっても120円にしかならないのに、預金なら確実に125円になる。最良のシナリオでさえ預金に負けている」。
先輩は新人の逆を突きます。株を1株借りてきて空売りし、手に入った100円をそのまま銀行に預けます。元手はゼロです。1年後、株が上がった世界では、預金が125円になり、株を120円で買い戻して返します。手元に5円残ります。株が下がった世界では、預金125円に対して買い戻しは90円で済み、35円が残ります。どちらの世界でも、先輩は確実に得をしています。
新人の失敗は「金利が高すぎる市場で株を持ったこと」でした。株の最良ケースが預金の確定リターンに届かない状況では、株を持つこと自体が不利で、逆側に立てば元手ゼロで確実に利益が取れます。これが「裁定」です。
裁定が起きない正常な市場には、条件があります。株の上がり幅は預金の利回りより大きく、預金の利回りは株が下がったときの利回りより大きい。この両方が成り立っていなければなりません。片方でも崩れると、どちらかの資産がもう片方を完全に支配してしまい、元手ゼロの確実な儲けが作れてしまいます。この回では、その条件がたった一本の不等式に集約されることを証明します。
1. 動機 ― 価格理論を最小の部品で組み立てる
この回を読み終えると、株と安全資産だけの市場で、裁定が起きるかどうかを数値の条件で判定できます。
金融商品の「正しい値段」は、どうやって決まるのでしょうか。需要と供給、と言いたくなりますが、それだけでは裁定(タダ同然で確実に儲かる取引)が残りうる価格体系を排除できません。裁定が存在しない――無裁定を出発点に置いたとき、価格は何に縛られるのかを見極めるのが、この先の目標です。
その構造を見極めるには、余分なものを全部削り落としてしまうのが近道です。時間は「今」と「満期」の2点、世界の状態は「上がる」か「下がる」かの2つ、売買できる資産は安全資産と原資産の2本だけ。この最小モデルだけで、無裁定条件が不等式1本に翻訳されること、各状態に値札がつくこと、任意のペイオフが作れることを全て示します。
この記事では、構造を理解するために必要な3つの定理を一切省略せず証明します。道具は代数と不等式だけです。
この記事で証明すること
- THM-OPB-1 安全資産と原資産だけの1期間2状態モデルが無裁定であることと、d<1+r<u が成り立つことは同値です。
- THM-OPB-2 無裁定のとき、各状態に1単位を払う基本証券の価格(状態価格)が正の値として一意に定まります。
- THM-OPB-3 2状態に対して独立な資産が2本あるため、任意のペイオフが安全資産と原資産の組み合わせで作れます。
2. 設定と仮定 ― 2つの状態と2本の資産
仮定を全て書き出します。あとで壊すために、今は全部揃えておきます。
- 時間: t=0(現在)と t=1(満期)の1期間のみ。
- 状態: 満期に起こりうる世界は2つ、Ω={ωu,ωd}。
- 原資産: 現在価格 S0>0。満期には S1(ωu)=uS0 または S1(ωd)=dS0。ただし 0<d<u。
- 安全資産: 時刻0に1を預けると時刻1に 1+r になる。r>−1 は確定した値。
- 摩擦なし: 取引コスト、税、売買スプレッドはない。空売りができる。任意の実数単位で売買できる。
- 主観確率: 上昇の確率は P(ωu)=p、p∈(0,1)。両方の状態が起こりうるということです。
ポートフォリオは (Δ,B) の組で表します。Δ は原資産の保有量、B は安全資産に置く金額(負なら借入)です。時刻0と時刻1の価値は
V0=ΔS0+B,V1(ω)=ΔS1(ω)+B(1+r)
です。
裁定とは、次の3条件を全て満たすポートフォリオのことです。
V0≤0,V1(ω)≥0for all ω,V1(ω)>0for some ω.
「タダかそれ以下で手に入り、損はせず、どこかで得する」。これが存在しないとき、市場は無裁定であると言います。
まとめると、モデルの部品は S0,u,d,r の4つの数値と、2つの状態です。この記事ではここからすべてを導きます。
3. 主張 ― 無裁定は不等式1本に翻訳できる
3つの定理を正確に述べます。
定理 THM-OPB-1(無裁定の必要十分条件)
安全資産と原資産だけの1期間2状態モデルが無裁定であることと、
が成り立つことは同値である。
この不等式の意味は明快です。左側 d<1+r は「安全資産の利回りが原資産の最悪ケースを上回る」、右側 1+r<u は「原資産の最良ケースが安全資産の利回りを上回る」。どちらか一方でも崩れると、一方の資産が他方を確実に支配してしまい、裁定が生まれます。
定理 THM-OPB-2(状態価格の存在と一意性)
モデルが無裁定であるとき、状態価格 φu,φd>0 が一意に存在して、
が成り立つ。ここで φu は「状態 ωu だけで1を払う基本証券」の時刻0での価格、φd も同様である。
状態価格とは、「その状態が起きたときだけ1円もらえる券」の値段です。(1) は安全資産の価格整合性(どの状態でも 1+r をもらえる券は 1/(1+r) の価値)、(2) は原資産の価格整合性(S0 で買った原資産の満期価値を状態価格で加重すると S0 に戻る)を表しています。
定理 THM-OPB-3(完備性)
2状態に対して独立な資産が2本あるため、任意のペイオフ X=(Xu,Xd) が安全資産と原資産の組み合わせで作れる。すなわち
ΔS1(ω)+B(1+r)=X(ω)for all ωを満たす (Δ,B) が一意に存在する。
「独立な資産が2本」とは、原資産と安全資産が満期に異なる値動きをする(uS0=dS0 かつ安全資産は両状態で同じ 1+r)ということです。状態が2つなので、2本の独立な資産があれば方程式が解けて、どんなペイオフでも作れます。
まとめると、無裁定は不等式1本、状態価格は連立方程式の解、完備性は行列の正則性に帰着します。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 裁定ポートフォリオを直接作る
この節は読まなくても記事は完結します。
THM-OPB-1 の証明
(⇐) d<1+r<u ならば無裁定。
任意のポートフォリオ (Δ,B) で V0≤0 を満たすものを取ります。V0=ΔS0+B≤0 なので B≤−ΔS0 です。B を大きくするほど満期の価値が上がるので、不等号の向きに注意して上界を調べます。
V1(ωu)=ΔuS0+B(1+r)≤ΔuS0−ΔS0(1+r)=ΔS0(u−(1+r))(3)
2行目で B≤−ΔS0 を代入しました。(1+r)>0 なので B が小さいほど B(1+r) も小さくなり、上界が得られます。同様に
V1(ωd)≤ΔS0(d−(1+r)).(4)
Δ の符号で場合分けします。
Δ>0 のとき。 仮定 d<1+r より d−(1+r)<0 です。ΔS0>0 を掛けるので (4) の右辺は負、つまり V1(ωd)<0 です。裁定の条件「全ての状態で V1≥0」に反します。
Δ<0 のとき。 仮定 1+r<u より u−(1+r)>0 です。ΔS0<0 を掛けるので (3) の右辺は負、つまり V1(ωu)<0。同じく裁定の条件に反します。
Δ=0 のとき。 V0=B≤0 で、V1(ω)=B(1+r) は両状態で同じ値です。V1≥0 と両立するのは B=0 のみで、そのとき V1≡0 です。「ある状態で V1>0」を満たさないので、裁定になりません。
以上より、どの場合も裁定にならず、市場は無裁定です。
(⇒) 無裁定ならば d<1+r<u。
対偶を示します。d<1+r<u が成り立たない、つまり 1+r≤d または 1+r≥u のどちらかが成り立つとき、裁定を具体的に構成します。
1+r≤d の場合。 安全資産の利回りが原資産の最悪ケースにも及ばないので、借金して原資産を買えば確実に得します。Δ=1,B=−S0 とおきます。V0=S0−S0=0 です。
V1(ωu)V1(ωd)=uS0−(1+r)S0=(u−(1+r))S0,=dS0−(1+r)S0=(d−(1+r))S0.
u>d≥1+r より V1(ωu)>0、V1(ωd)≥0 です。元手ゼロで上昇状態では正の利益、下落状態でも損なし。裁定です。
1+r≥u の場合。 原資産がどう動いても安全資産に勝てないので、原資産を空売りして安全資産に置きます。Δ=−1,B=S0 とおきます。V0=−S0+S0=0 です。
V1(ωu)V1(ωd)=−uS0+(1+r)S0=((1+r)−u)S0≥0,=−dS0+(1+r)S0=((1+r)−d)S0>0.
(1+r)≥u>d より、下落状態では V1(ωd)>0 が成り立ちます。元手ゼロで少なくとも一方の状態で正の利益。裁定です。 ∎
この証明で確率 p は一度も使っていません。裁定の有無は「どの状態が起こりうるか」だけで決まり、「どの程度起こりやすいか」には依存しません。
THM-OPB-2 の証明
状態価格 φu,φd は、各資産の時刻0の価格を満期のペイオフの加重和として表す重みです。安全資産は両状態で 1+r を払うので、価格 1 との整合性から
が必要です。(1+r) でくくると (1) が得られます。
原資産は上昇で uS0、下落で dS0 を払うので、価格 S0 との整合性から
S0>0 で割ると (2) が得られます。
φu の項をまとめるために展開します。
右辺に移項して φu を求めます。
φu(u−d)=1−1+rd=1+r(1+r)−d.
u=d(仮定 0<d<u)なので両辺を u−d で割れます。
φu=(u−d)(1+r)(1+r)−d.(5)
同様に φd は (1) から
φd=1+r1−φu=(u−d)(1+r)u−(1+r).(6)
解は一意です(2本の1次方程式の係数行列式 u−d=0)。
正値性を確認します。分母 (u−d)(1+r)>0 は、仮定 0<d<u と r>−1 から成り立ちます。分子について、
したがって φu>0 かつ φd>0 は d<1+r<u、すなわち THM-OPB-1 の無裁定条件と同値です。 ∎
状態価格が正であることと無裁定であることが同値になる、という構造がここに見えます。状態価格のどちらかがゼロや負になると、その状態の価値が崩れて裁定が生まれるということです。
THM-OPB-3 の証明
任意のペイオフ X=(Xu,Xd) を安全資産と原資産で作る条件は、各状態でポートフォリオの満期価値がペイオフに一致することです。
{Δ⋅uS0+B(1+r)=XuΔ⋅dS0+B(1+r)=Xd(7)
これは (Δ,B) についての2元連立1次方程式です。
第1式から第2式を引くと、B(1+r) が消えて Δ だけの式になります。
u=d かつ S0>0 なので
Δ が一意に定まりました。これを第1式に戻して B を求めます。
Δ の値 (8) を代入して整理します。分子で Xu から Δ⋅uS0 を引くために、通分します。
B=1+r1(Xu−u−du(Xu−Xd))=1+r1⋅u−dXu(u−d)−u(Xu−Xd)=(u−d)(1+r)uXd−dXu.(9)
分子の整理では Xu⋅u−Xu⋅d−u⋅Xu+u⋅Xd=uXd−dXu としました。
2つの未知数に対して2本の独立な1次方程式(係数行列式 (u−d)S0=0)なので、解は一意です。したがって任意のペイオフ X に対して、それを実現するポートフォリオ (Δ,B) がただ一つ存在します。 ∎
この完備性の源泉は「状態の数 = 独立な資産の数 = 2」という釣り合いです。資産が足りなければ方程式が解けなくなり、反例の節で確認します。
なお、複製コストは状態価格で表すこともできます。V0=ΔS0+B を (8), (9) から計算すると
V0=u−dXu−Xd+(u−d)(1+r)uXd−dXu=(u−d)(1+r)(Xu−Xd)(1+r)+uXd−dXu=(u−d)(1+r)Xu(1+r−d)+Xd(u−(1+r)).
分子の各項を (u−d) で割ると、(5), (6) の状態価格が現れます。
つまり、どんなペイオフでも「状態価格で加重した和」が正しい時刻0の値段です。これは状態価格の定義と整合的です。各状態で1を払う基本証券の値段が φu,φd なら、状態 ωu で Xu を払い、状態 ωd で Xd を払う商品は、基本証券を Xu 枚と Xd 枚買えば作れるからです。
5. 反例 ― 資産が足りないと何も作れない
反例 CEX-OPB-1: 不等式が崩れると裁定が生まれる
THM-OPB-1 の条件 d<1+r<u を崩します。S0=100, u=1.2, d=0.9 はそのままで、金利だけ r=0.25 に上げます。1+r=1.25≥u=1.2 です。
原資産を空売りして安全資産に置きます。Δ=−1,B=100 で V0=0。
V1(ωu)V1(ωd)=−120+125=5,=−90+125=35.
元手ゼロで、どちらの状態でも正の利益が出ます。原資産の最良ケースでさえ安全資産に負けるなら、原資産を持つ理由がありません。
このとき状態価格を計算しようとすると、(5) から
φu=0.3×1.251.25−0.9=0.3750.35=0.9333
ですが、(6) から
φd=0.3×1.251.2−1.25=0.375−0.05=−0.1333<0.
φd が負になっています。「下落状態で1円もらえる券」に負の値段をつけなければ帳尻が合わない――これは市場が壊れていることの表れです。
反例 CEX-OPB-2: 安全資産だけでは状態を区別できない
THM-OPB-3 の完備性は「独立な資産が2本ある」ことに依存しています。原資産を取り除き、安全資産だけの市場を考えます。
ポートフォリオは B だけです。V1(ωu)=B(1+r) と V1(ωd)=B(1+r) は常に等しくなります。
ペイオフ (Xu,Xd)=(30,10) を作ろうとすると、B(1+r)=30 と B(1+r)=10 を同時に満たす B が必要ですが、30=10 なので矛盾します。B=28.5714 と B=9.5238 のどちらか一方しか選べません。
安全資産は両状態で同じ値を払うので、状態を区別する能力を持ちません。区別するには、上昇と下落で異なる値動きをする原資産が必要です。
反例 CEX-OPB-3: 上昇率と下落率が同じだと独立性が消える
u=d=1.2 とします。原資産の満期価格は S1(ωu)=S1(ωd)=120 で、どちらの状態でも同じです。原資産が安全資産と同じく「状態を区別しない」資産になってしまいます。
ペイオフ (30,10) を作ろうとすると、(7) の連立方程式は
{Δ⋅120+B(1+r)=30Δ⋅120+B(1+r)=10
となり、左辺が両方とも同じなのに右辺が 30=10。辺々引くと 0=20 で矛盾します。
(8) の分母 (u−d)S0=0 がゼロになるのがこの矛盾の正体です。u=d のとき、原資産は「利回りが u−1 の安全資産」と同じですから、2本目の独立な資産が存在しないことになります。
まとめると、完備性には「状態の数だけ独立な資産がある」ことが不可欠です。
6. 数値例 ― 状態価格を2つ計算する
S0=100, u=1.2, d=0.9, r=0.05 で計算します。
無裁定の確認: d=0.9<1.05<1.2=u。成立します。
状態価格((5), (6)):
φu=0.3×1.051.05−0.9=0.3150.15=2110≈0.4762,
φd=0.3×1.051.2−1.05=0.3150.15=2110≈0.4762.
この数値では φu=φd になっていますが、これは偶然です。1+r=1.05 がちょうど u=1.2 と d=0.9 の中点にあるからです。
和が割引係数に一致することの検算((1)):
φu+φd=2110+2110=2120≈0.9524=1.051.
一致します。
原資産価格の復元((2) の検算):
|
上昇 ωu |
下落 ωd |
| S1 |
120 |
90 |
| 状態価格 |
10/21 |
10/21 |
φu×120+φd×90=211200+21900=212100=100=S0.
任意のペイオフの複製:
ペイオフ (Xu,Xd)=(30,10) を作ります。(8), (9) から
Δ=0.3×10030−10=3020=32≈0.6667,
B=0.3×1.051.2×10−0.9×30=0.315−15=−211000≈−47.619.
コストは
V0=32×100−211000=211400−211000=21400≈19.0476.
状態価格で検算((10)):
φu×30+φd×10=21300+21100=21400≈19.0476.
一致します。数値は全て compute.py により有理数演算で検算済みです。
7. 次回へ ― オプションを株と現金で作る
この回で確かめたことは3つです。無裁定は d<1+r<u という不等式1本で特徴づけられること。無裁定のもとで各状態に値札(状態価格)がつき、それが正かつ一意であること。そして、独立な資産が状態の数だけあれば任意のペイオフが作れること。
次回(第44回)は、この枠組みを使ってオプションを株と現金だけで作ります。コールやプットのペイオフを具体的に代入して、今回の一般式が何を意味するかを見ます。
次のマイルストーンまであと 12 本です。
よくある質問
2状態は単純すぎませんか
単純だからこそ、価格が何で決まるかがはっきり見えます。状態の数を増やしたモデルは第51回で扱います。
状態価格とは何ですか
その状態が起きたときだけ1円もらえる券の値段です。すべての商品はこの券の組み合わせで作れます。
なぜ資産が2本必要なのですか
状態が2つあるからです。区別するには最低2本の独立な資産が要ります。
参考文献
- Cox J. C.、Ross S. A. and Rubinstein M.、Option Pricing ― A Simplified Approach、Journal of Financial Economics、1979年、DOI 10.1016/0304-405X(79)90015-1
- Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance I ― The Binomial Asset Pricing Model、Springer、2004年
数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。