第20回 なぜ正規分布が金融に出てくるのか ― そして、どこで出てこないのか

位置: 第3部 第20回 / 前提: 第19回 / 数学編: M5 / この回でできるようになること: 収益率を正規分布で近似してよい場面とよくない場面を、裾の確率の違いで判断できる
0. 物語 ― 正規分布では起きないはずの暴落
手元に1000万円の株式ポートフォリオがあって、ある朝、市場が開くと1日で23パーセント下がったとします。230万円が一晩で消えた計算です。1987年10月19日、「ブラックマンデー」と呼ばれるこの日に、実際にそれが起きました。
正規分布の理論で、1日に23パーセント落ちる確率を計算すると、10のマイナス113乗という数字が出てきます。これは宇宙に存在する全原子の中から特定の1個を偶然引き当てる確率よりもはるかに小さく、「数字としてほとんど意味をなさないほどのゼロ」です。にもかかわらず、現実には起きました。
なぜこれほどのズレが生じるのでしょうか。正規分布には「裾が指数的に薄い」という性質があります。平均から遠く離れた事象に割り当てる確率が、急速にゼロへ近づくのです。平均から標準偏差の3倍離れた事象であれば1年半に1回ほどで、これは感覚に合います。しかし5倍離れると理論上は約7000年に1回、10倍離れると事実上ありえない出来事として扱われます。
現実の金融市場では、5倍離れた変動が数年おきに観測されています。正規分布は「ふだんの動き」をうまく近似しますが、「まれに起きる大きな動き」を桁違いに過小評価します。この回では、正規分布の便利な性質を証明したうえで、どこまで信頼してよいのかを、裾の確率の数値で線引きします。
1. 動機 ― なぜ最初に正規分布を習うのか
この回を読み終えると、収益率を正規分布で近似してよい場面とよくない場面を、裾の確率の違いで判断できます。
金融工学の教科書を開くと、最初に登場する分布はほぼ必ず正規分布です。これは「現実の収益率が正規分布に従うから」ではありません。正規分布が最初に来るのは、足し算や定数倍をしても同じ種類の分布に留まるという計算上の性質を持つからです。
ポートフォリオを組むとは、資産の収益率を足し合わせることです。個々の収益率が正規分布に従うなら、ポートフォリオ全体の収益率も正規分布になります。平均と分散だけ追跡すれば十分で、分布の形を最初から計算し直す必要がありません。この「閉じている」性質が、計算を驚くほど簡単にします。
一方で、正規分布には深刻な弱点があります。裾が指数的に薄く、現実に観測される大暴落の頻度を全く説明できません。この回では、まず正規分布の便利な性質を証明し、そのあとで「どこが現実に合わないのか」を数値で確かめます。
この記事で証明すること
- THM-ND-1 独立な正規分布の和は、平均と分散をそれぞれ足した正規分布になります。
- THM-ND-2 正規分布の定数倍と定数加算は再び正規分布です。したがって標準化で平均 0、分散 1 に直せます。
- THM-ND-3 標準正規分布の上側確率は、密度関数を引数で割った量で上から押さえられます。裾は指数的に減衰します。
2. 設定と仮定 ― 密度関数から定義する
正規分布を密度関数で定義します。
確率変数
が成り立つことです。ここで
ガウス積分
以降の証明では、2つの確率変数の独立性を「同時分布が周辺分布の積に分解する」として扱います。連続型の場合、
が成り立つことです。
この節のまとめ: 正規分布は密度関数 (1.1) で定義し、標準正規分布の密度
3. 主張 ― 足しても線形変換しても形が変わらない
3つの定理を述べます。
定理 THM-ND-1(正規分布の再生性)
、 が独立であるとき、 である。
定理 THM-ND-2(線形変換の閉性)
のとき、定数 , に対し である。特に
とおくと である。
定理 THM-ND-3(裾の上界)
のとき、 に対し である。したがって上側確率は
のオーダーで減衰する。
THM-ND-1 と THM-ND-2 を合わせると、正規分布に従う変数をいくら足しても定数倍しても定数を加えても、結果は正規分布の中に留まります。THM-ND-3 は裾の減衰の速さを定量化します。
この節のまとめ: 正規分布は和・線形変換に閉じており、裾は密度関数を引数で割った量で上から押さえられます。
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― 和の分布を計算する
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第5回「積分の技法とガウス積分」へ。
THM-ND-2 の証明
THM-ND-1 より先に THM-ND-2 を示します。こちらが簡単で、THM-ND-1 の証明でも使うからです。
すなわち
分布関数の形から密度関数を得るため、
指数部分の分子を整理します。
分母の
これは
標準化は
THM-ND-1 の証明
THM-ND-2 により
独立なので同時密度は積に分解されます。
指数部分をまとめて
共通分母
分子は
となります。残りの定数項を計算します。
が残ります。したがって (2.4) は、分子を共通分母
に等しくなります。第2項は
これは
検算します。
THM-ND-3 の証明(要点)
を上から評価します。
右辺の積分を計算します。
(2.7) がどの程度きつい評価かを数値で確認します。
| 比率 | |||
|---|---|---|---|
| 3 | 0.914 | ||
| 4 | 0.947 | ||
| 5 | 0.964 |
この節では証明の末尾のまとめは省略します。
5. 反例 ― 裾が細すぎて現実に合わない
正規分布の便利さを見ましたが、金融データに当てはめると深刻な問題が3つ出てきます。
CEX-ND-1: 大暴落の確率が小さすぎる
日次の収益率が
です。宇宙の年齢を秒で数えても足りないほど小さい数字です。
1987年10月19日のブラックマンデーでは、ダウ平均が1日で約 22.6% 下落しました。正規分布のもとでこれが起きる確率は
です。しかし現実に起きました。正規分布は、起きるはずがない事象が実際に起きているという事実を説明できません。裾が指数的に(THM-ND-3)速く減衰するため、極端な事象の確率を過小評価します。
CEX-ND-2: 価格が負になる
株価
です。約 0.043% の確率で株価が負になります。株式の有限責任の原則と矛盾します。
これは「価格そのもの」に正規分布を当てることの本質的な問題です。正規分布は
CEX-ND-3: 独立でないと分散の足し算が崩れる
THM-ND-1 の仮定には「独立」が入っています。この条件を外すとどうなるかを数値で見ます。
です。一方、独立と誤って仮定すると
平均については
この節のまとめ: 正規分布の裾は現実の大暴落を説明できず、価格に直接当てると負の価格が生じ、独立性を見落とすと分散を過小評価します。
6. 数値例 ― 5シグマは何年に1回か
標準正規分布のもとで、平均から
3シグマ事象:
これは約 370.4 営業日に 1 回、すなわち約 1.47 年に 1 回です。体感と合います。
5シグマ事象:
これは約 1,744,278 営業日に 1 回、すなわち約 6,922 年に 1 回です。文明が始まってから起きるかどうかの頻度です。
しかし現実の金融市場では、5シグマを超える日次変動は数年に一度は観測されます。2008年の金融危機や2020年のコロナショックでは、日次で 5% 以上(5シグマ超)の変動が複数回記録されています。理論と現実の間に桁違いのギャップがあることが、正規分布モデルの最大の弱点です。
この節のまとめ: 3シグマは約 1.5 年に 1 回で現実的ですが、5シグマは理論上 7,000 年に 1 回なのに実際には数年おきに起きます。
7. 次回へ ― 価格が負にならない形へ
今回、正規分布が足し算と線形変換に閉じている便利さを見ました。一方で、裾が細すぎて大暴落を過小評価すること、そして価格に直接当てると負の値を許してしまうことも確かめました。
次回(第21回)では、価格が負にならないようにモデルを修正します。株価の「水準」ではなく「対数」に正規分布を当てるとどうなるか。そこで登場するのが対数正規分布です。
次のマイルストーンまであと 22 本です。
よくある質問
なぜ正規分布ばかり使うのですか
足し算に強く、計算が閉じるからです。現実に合っているからではありません。
現実の収益率は正規分布ですか
違います。大きな変動が理論よりずっと頻繁に起きます。それでも出発点としては便利です。
シグマという言い方は何ですか
標準偏差の何倍か、という数え方です。3シグマなら標準偏差の3倍だけ平均から離れている、という意味です。
参考文献
- Billingsley P.、Probability and Measure、第3版、Wiley、1995年
- Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
数値例は compute.py により scipy.stats の標準正規分布関数で計算済み。浮動小数点数を使用している理由は正規分布の分布関数が有理数で表せないため。

