第21回 対数正規分布と株価 ― 価格が負にならないという要請から形が決まる

第21回 対数正規分布と株価 ― 価格が負にならないという要請から形が決まる

位置: 第3部 第21回 / 前提: 第20回 / 数学編: M15 / この回でできるようになること: 株価の平均と中央値がずれる理由を説明し、対数正規分布のもとで期待価格を計算できる

目次

0. 物語 ― 平均収益率と期待価格の取り違え

ある資産運用会社の新人アナリストが、レポートにこう書きました。「この銘柄の平均収益率はゼロなので、1年後の期待価格は現在の100のまま変わりません」。上司はそのレポートを突き返しました。計算が間違っている、というのです。

平均収益率がゼロでも、期待される価格は100ではなく約102になります。差はおよそ2です。新人が見落としたのは、株価の変動に「かけ算のずれ」が潜んでいることでした。

具体的に見てみます。100の株が50パーセント上がると150になり、そこから50パーセント下がると75になります。上がった分と下がった分を足せばゼロですが、最終的な価格は100に戻りません。上がるときの基準額と下がるときの基準額が違うからです。100に対する50パーセントは50の増加ですが、150に対する50パーセントは75の減少です。同じ「50パーセント」でも金額は対称ではありません。

この非対称性は、価格がゼロより下に行けないことと表裏一体です。下がる方向には底がある一方、上がる方向には天井がないため、分布の右側が長く伸びます。その長い右裾が、平均を真ん中の値よりも上に引き上げます。

新人の間違いは、平均的な収益率と、平均的な価格とを同一視したことにありました。この回では、株価の対数に正規分布を当てるモデルを作り、期待される価格と真ん中の価格がどれだけずれるか、そのずれはどこから来るのかを、密度関数の導出から積み上げて示します。

1. 動機 ― 価格が負になるモデルは使えない

この回を読み終えると、株価の平均と中央値がずれる理由を説明し、対数正規分布のもとで期待価格を計算できます。

前回まで、収益率やリスクを議論するときに正規分布を当てはめてきました。しかし正規分布は負の値を取りえます。収益率が正規分布に従うなら、理論上は株価が負になるシナリオが存在します。これは現実にそぐいません。株価は 0 より下に行かないからです。

この問題を回避するには、株価そのものではなく、株価の対数に正規分布を当てるという発想が必要です。対数を取ると、もとの値は必ず正になります。さらにこの設定には、収益率を「足せる」という嬉しい性質がついてきます。

今回は、対数正規分布の密度関数を変数変換で導き、期待値と中央値の公式を証明し、多期間への拡張まで一気に示します。

この記事で証明すること

  • THM-LN-1 対数が正規分布に従う確率変数の密度関数は、変数変換の公式で一意に定まります。この変数は正の値しか取りません。
  • THM-LN-2 対数正規分布の期待値は であり、中央値 より必ず大きくなります。
  • THM-LN-3 各期の対数収益率が独立に正規分布に従うなら、多期間の対数収益率も正規分布に従い、価格は対数正規分布になります。

2. 設定と仮定 ― 対数を取ってから正規分布を当てる

以下の仮定を置きます。

  • 株価の正値性: 株価 は正の値のみを取ります。 とします。
  • 対数収益率の定義: 対数収益率を で定義します。ここで は自然対数です。
  • 正規性: 各期の対数収益率は独立で、同じ正規分布に従います。
  • 取引条件: 配当と取引コストはありません。
  • 数学的道具: 変数変換の公式は数学編 M15 の結果として使います。

対数収益率 が平均 、分散 の正規分布に従うとき、 の分布を対数正規分布と呼びます。 とします。

この節のポイントは、「対数を取ると正規分布になる」のが定義だということです。

3. 主張 ― 正値性と加法性を同時に手に入れる

3つの定理を述べます。

定理 THM-LN-1(対数正規分布の密度) が平均 、分散 の正規分布に従うとする。このとき は正の値のみを取り、 の密度関数は

ただし とする。 で与えられる。 では である。

定理 THM-LN-2(平均と中央値のずれ) が上の対数正規分布に従うとき、

であり、中央値は である。 のとき が成り立つ。

定理 THM-LN-3(収益率の加法性) 各期の対数収益率 が独立に に従うとする。このとき 期間の対数収益率は

であり、 は対数正規分布に従う。

定理 THM-LN-1 は正値性を、THM-LN-3 は加法性を与えます。この2つが対数正規モデルを採用する根拠です。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 変数変換で密度を出す

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第15回「変数変換とヤコビアン」へ。

THM-LN-1 の証明

が に従うとします。 は単調増加で値域は ですから、 です。よって は正の値しか取りません。

の分布関数を求めます。 に対して

の両辺は正なので、対数を取る操作が使えます。 は単調増加ですから不等号の向きは変わらず、

右辺は の分布関数を で評価したものです。 の密度関数を と書くと

密度関数は分布関数を微分すれば出ます。数学編 M15 の変数変換の公式を使います。(2.2) の右辺を で微分します。被積分関数は に依存せず、上端 が の関数なので、微分の連鎖律により

の密度を書き下すと ですから、 を代入して

これが (1.1) です。 のとき より なので です。

密度関数が一意に定まることは、変数変換が 1 対 1( は単射)であることから従います。 ∎

THM-LN-2 の証明

期待値の計算。 , ですから

被積分関数の指数部分を整理します。 と密度の指数部分を合体させるため、指数をひとつにまとめます。

括弧の中を平方完成するため展開します。

を中心に平方完成を行います。 ですから

したがって

(2.4)

残った積分は の密度の全区間積分なので 1 です。よって

これが (1.2) です。

中央値の計算。 中央値 は を満たす値です。(2.1) より

の中央値は平均 に等しいので 、すなわち です。

大小比較。 のとき ですから

期待値は中央値より常に大きくなります。直感的には、対数正規分布は右に長い裾を持つため、大きな値が平均を引き上げるのです。 ∎

THM-LN-3 の証明

各期の対数収益率を とします。仮定より は独立に に従います。

期間の対数収益率は、対数の性質から各期の和になります。対数を掛け算から足し算に変換する性質を使います。

これはテレスコーピング(隣り合う項が打ち消し合う)による等式です。 であり、途中の は足して引いて消えます。

独立な正規確率変数の和は再び正規分布に従います(正規分布の再生性)。平均は各期の平均の和、分散は各期の分散の和です。

が正規分布に従うので、定義から は対数正規分布に従います。 ∎

この証明が成り立つのは対数収益率を使ったからです。単純収益率 では、積は展開されますが和にはなりません。対数を取ることで掛け算が足し算に変わり、正規分布の再生性が使えるようになります。

5. 反例 ― 平均収益率0でも価格は上がる

CEX-LN-1: 対数収益率の平均が0でも期待価格は上がる

「対数収益率の平均が 0 なら期待価格は元のままだろう」という直感は間違いです。

, , とします。中央値は

で初期価格に等しいですが、期待価格は

です。対数収益率の平均が 0 であっても、期待価格は初期価格より だけ大きくなります。

このずれは から来ます。分散 が大きいほど期待値は中央値から離れます。対数正規分布の右裾が長いため、大きく上がるシナリオが平均を引き上げるのです。「平均収益率」と「期待価格」を同一視してはいけません。

CEX-LN-2: 単純収益率は足せない

株価が 50% 上がった後、50% 下がったとします。

単純収益率の和は ですが、最終価格は で元に戻りません。

一方、対数収益率で見ると

であり、和は です。最終価格は

で一致します。対数収益率の和がそのまま多期間の対数収益率になることが確認できます。単純収益率を足すと見かけ上「行って帰って」ゼロですが、実際には損をしています。足してよいのは対数収益率です。

CEX-LN-3: 対数正規分布でも現実には合わない

対数正規分布で価格の正値性は確保できますが、それで現実に合うわけではありません。

, , のとき、1年後に価格が半分(50 以下)になる確率を計算します。

約 3800 年に 1 回しか起きない計算になります。しかし現実の株式市場では、年次で 50% を超える下落はこれよりはるかに頻繁に観測されます。

対数正規分布にしたことで改善されたのは価格が負にならないという点だけです。大きな変動(ファットテール)の頻度は依然として過小評価されます。正規分布の裾が指数的に減衰するという性質は、対数を取っても解消されません。

6. 数値例 ― 1年後の期待価格と中央値を並べる

、対数収益率が平均 、標準偏差 (分散 )のとき、1年後の株価について以下が成り立ちます。

量 式 値
期待価格
中央値
期待値と中央値の比

平均と中央値の比が に一致することを確認します。

計算値 と一致しています。

50% 上昇後 50% 下落の計算:

単純収益率の和は ですが最終価格は です。対数収益率の和 から復元した と一致します。

価格が半分以下になる確率: 対数正規分布のもとで です。

THM-LN-3 の多期間の確認として、月次の対数収益率が (標準偏差 )に独立に従うとき、12 か月の和は となり、年次パラメータに一致します。

この節のまとめです。期待価格は中央値より 倍だけ大きく、このずれは分散から生まれます。

7. 次回へ ― なぜ和を取ると正規分布に近づくのか

次回(第22回)では、大数の法則と中心極限定理を扱います。今回「対数収益率の和は正規分布に従う」と言いましたが、これは各期の分布が正規分布であることを仮定していました。もし各期の分布が正規分布でなくても、十分な数を足し合わせれば和の分布は正規分布に近づきます。それが中心極限定理です。対数正規モデルの正当化をもう一段深く与えます。

次のマイルストーンまであと 21 本です。

よくある質問

なぜ対数を取るのですか

価格を正のまま保ちたいのと、収益率を足せるようにしたいからです。この2つが同時に手に入ります。

期待価格と中央値はなぜずれるのですか

分布が右に長く伸びているからです。大きく上がる場合が平均を引き上げます。

これで現実に合うようになりますか

価格が負にならない点は直りますが、大きな変動の頻度はまだ合いません。そこは後の回で扱います。

参考文献

  1. Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年
  2. Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance II ― Continuous-Time Models、Springer、2004年

数値例は compute.py により計算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。指数・対数・正規分布を使うため float で計算し、assert に許容誤差を明示している。

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