第53回 CRR パラメータの決め方 ― u と d はどこから来るのか

位置: 第5部 第53回 / 前提: 第32回、第51回 / 数学編: M2 / この回でできるようになること: ボラティリティから二項ツリーの上昇率と下落率を決め、そのツリーが使える刻みの条件を確かめることができる
0. 物語 ― 刻みが粗いと重みが0から1をはみ出す
デリバティブの価格計算を担当するチームが、二項ツリーを組んでオプションの値段を出そうとしています。満期1年のオプションに対して、ツリーを4分割すれば十分だろうと考えました。ボラティリティは年率20パーセントです。ところが、金利が高い通貨で同じツリーを使い回そうとしたとき、計算が壊れます。
金利が年率50パーセントの通貨を想像してください。4分割のツリーで計算すると、1期間あたりの安全資産の成長率は約1.13になります。一方、ツリー上の株価の最大上昇率は約1.11にしかなりません。安全資産に預けるだけで、株がどんなに上がっても、それを上回ってしまうのです。
こうなると、株を空売りしてその代金を安全資産に入れるだけで、上がった世界でも下がった世界でも利益が出ます。リスクなしで儲かる取引が存在する以上、このツリーでまともな値段は出せません。実際にリスク中立的な重みを計算してみると約1.14になり、0から1の範囲をはみ出します。
原因は刻みの粗さです。この条件では、1期間の長さが0.16を超えるとツリーが破綻します。4分割だと1期間は0.25ですから、限界を大きく超えています。7分割以上にすれば1期間は約0.14になり、重みはきちんと0から1の間に収まります。
二項ツリーの上昇率と下落率には「連続時間のモデルと統計的な性質を合わせる」という設計思想があります。上昇率と下落率を適切に選び、刻みを十分に細かくしなければ、ツリーは計算の道具として機能しません。この回では、その設計の条件をひとつずつ明らかにしていきます。
1. 動機 ― u と d は勝手に決めてよいのか
この回を読み終えると、ボラティリティから二項ツリーの上昇率と下落率を決め、そのツリーが使える刻みの条件を確かめることができます。
二項モデルでは、原資産が1期間で
直感的には、二項モデルは現実の連続的な株価変動を離散的に近似するものです。ならば、連続時間のモデルが持つ統計的性質を、離散モデルが再現するように
今回は、Cox・Ross・Rubinstein(CRR)のパラメータの取り方がどこから来るのかを、モーメント・マッチングの条件から完全に導きます。さらに、刻みの取り方を誤ると確率が区間を外れること、パラメータの取り方は一意でないこと、期数を増やしたときに価格が振動しながら収束することを、数値で確認します。
この記事で証明すること
- THM-CRR-1 1期間の対数収益率の平均と分散を連続時間モデルに合わせる条件から、
, , の関係式が決まります。 - THM-CRR-2
という対称条件を追加すると、 として一意に定まります。 - THM-CRR-3 時間刻みが十分小さければリスク中立確率は
に入りますが、刻みが粗いと外れることがあります。
この節のまとめ: 二項モデルの
2. 設定と仮定 ― 連続時間の目標に合わせる
二項モデルのパラメータを選ぶための前提を整理します。
- 連続時間の目標: 原資産価格は幾何ブラウン運動に従うとします。このとき、微小時間
の対数収益率 は、平均 、分散 の正規分布に従います。ここで は連続複利の無リスク金利、 はボラティリティです。この性質は結果として引用します。 - 各期の
, , は一定: 二項モデルの全期間を通じて、上昇率・下落率・金利は同じ値を使います。 - 時間刻み: 満期
を 期に分割します。1期間の長さは です。 - 数値に単位は付けない: 金利は年率、
は年で測りますが、単位は明示しません。
1期間の二項モデルでは、原資産の対数収益率は2つの値を取ります。
ここで
この節のまとめ: 連続時間モデルの対数収益率の平均と分散を、二項モデルの対数収益率が再現するようにパラメータを選びます。
3. 主張 ― 平均と分散を合わせると決まる
定理 THM-CRR-1(モーメント・マッチング) 1期間の対数収益率のリスク中立的な平均と分散を連続時間モデルに合わせる条件は次の2つである。
\begin{aligned} q \ln u + (1-q) \ln d &= (r – \sigma^2/2)\,\Delta t \tag{3.1} \\ q (\ln u)^2 + (1-q)(\ln d)^2 – [q \ln u + (1-q) \ln d]^2 &= \sigma^2 \Delta t \tag{3.2} \end{aligned} :KaTeX parse error: Multiple \tag ここで未知数は
, , の3つ、条件式は2本である。自由度が1つ残るため、追加の条件を1つ課す必要がある。
定理 THM-CRR-2(CRR の選び方) 追加条件として
(すなわち )を課すと、 の高次の項を無視した近似のもとで が一意に定まる。対応するリスク中立確率は
である。
定理 THM-CRR-3(確率が区間に入る条件) CRR パラメータのもとで
とする。 が成り立つための必要十分条件は 、すなわち である。
が十分大きければ( が十分小さければ)この条件は常に満たされる。
この節のまとめ: モーメント・マッチングの2条件と
証明を読む(読まなくても記事は完結します)
4. 証明 ― モーメントを一致させる
この節は読まなくても記事は完結します。
この証明を追いたい人は、数学編 第2回「テイラー展開」へ。
THM-CRR-1 の証明
対数収益率
です。分散は
です。連続時間の幾何ブラウン運動のもとでは、
未知数は
THM-CRR-2 の証明
自由度を消すために、CRR は
第1項と第2項をまとめると
したがって
ここで最後の等式は、
次に (3.1) の平均条件を使います。
です。この段階で、
です。(4.4) から
(4.5) に
よって
が得られます。
この近似が妥当である理由を確認します。(4.4) に
となり、
リスク中立確率を正確に求めます。1期間後の株価の期待値を割り引いた値を現在価格に等しくする条件(リスク中立条件)は
です。
が得られます。これが (3.4) です。 ∎
THM-CRR-3 の証明
すなわち
が得られます。
逆に
この節のまとめ: モーメント・マッチングと
5. 反例 ― 刻みが粗いと確率が範囲を出る
反例 CEX-CRR-1: 大きな金利と粗い刻み
THM-CRR-3 の条件が破れる状況を数値で確認します。
1期間の安全資産の成長率は
です。
となり、
なぜ裁定が生じるか: 安全資産の成長率が株の上昇率を上回るので、株を空売りして安全資産に全額入れれば、どちらの状態でも利益が出ます。これは第45回で見た
THM-CRR-3 から、臨界の刻み幅は
反例 CEX-CRR-2: パラメータの取り方は一意ではない
THM-CRR-1 で見たように、モーメント・マッチングの条件は2本で未知数は3つあるため、
とします。
どちらの取り方でも、
| 期数 |
CRR 価格 | CRR 誤差 | JR 価格 | JR 誤差 |
|---|---|---|---|---|
| 10 | 10.2534 | 0.1972 | 10.5257 | 0.0751 |
| 50 | 10.4107 | 0.0399 | 10.4876 | 0.0370 |
| 200 | 10.4406 | 0.0100 | 10.4453 | 0.0052 |
| 1000 | 10.4486 | 0.0020 | 10.4522 | 0.0016 |
CRR と JR のどちらも収束しますが、
反例 CEX-CRR-3: 振動しながら収束する
「期数を増やせば価格は単調に正しい値に近づく」と期待するかもしれませんが、実際にはそうなりません。CRR モデルのコール価格は、
| 価格 | |
|---|---|
| 10 | 10.2534 |
| 11 | 10.6112 |
| 12 | 10.2859 |
| 13 | 10.5864 |
| 14 | 10.3091 |
| 15 | 10.5682 |
| 20 | 10.3513 |
| 30 | 10.3842 |
| 50 | 10.4107 |
| 60 | 10.4173 |
極限価格は
この振動が起きる理由は、
この節のまとめ: 刻みが粗いと確率が
6. 数値例 ― 期数を増やして価格を追う
1期間の成長率と確率は
です。
期数を変えたコール価格:
| 期数 |
CRR コール価格 | |
|---|---|---|
| 10 | 0.1 | 10.2534 |
| 50 | 0.02 | 10.4107 |
| 200 | 0.005 | 10.4406 |
| 1000 | 0.001 | 10.4486 |
極限価格は
確率が区間を外れる条件:
です。
この節のまとめ:
7. 次回へ ― 極限で何が起きるのか
今回は、二項モデルの
次回(第54回)では、この極限操作をもう少し掘り下げます。
この節のまとめ: 期数を増やすほど二項モデルは連続時間モデルに近づきます。次回、その極限の正体を中心極限定理で明らかにします。
次のマイルストーンまであと 1 本です。
よくある質問
u と d の決め方は1通りですか
違います。条件を満たす取り方は複数あります。CRR はそのうち扱いやすいものです。
期数はいくつにすればいいですか
数百もあれば実用上は十分です。増やすほど正確になりますが計算時間も増えます。
確率が1を超えたらどうなりますか
そのツリーには裁定が存在します。刻みを細かくするか、パラメータを見直す必要があります。
参考文献
- Cox J. C.、Ross S. A. and Rubinstein M.、Option Pricing ― A Simplified Approach、Journal of Financial Economics、1979年、DOI 10.1016/0304-405X(79)90015-1
- Hull J. C.、Options Futures and Other Derivatives、第11版、Pearson、2021年

