第23回 情報が増えるとはどういうことか ― 条件付き期待値を金融の言葉で使う

第23回 情報が増えるとはどういうことか ― 条件付き期待値を金融の言葉で使う

位置: 第3部 第23回 / 前提: 第17回、第19回 / 数学編: M13、M16 / この回でできるようになること: 途中までの情報で将来の支払いの期待値を更新し、後ろ向きに今日の値を計算できる

目次

0. 物語 ― 条件付き期待値で将来の価格は予想できない

トレーディングデスクで、ある株を追いかけているとします。今の株価は100で、1期間ごとに2割上がるか2割下がるかのどちらかです。2期間先まで見届けることにしましょう。各期の確率は半々とします。

1期目が終わり、株は上がって120になりました。「この先、2期間目が終わったときの株価は平均いくらだろう」と計算してみます。上がれば144、下がれば96ですから、半々で平均すると120です。

ここで落とし穴があります。「平均が120なのだから、2期間後の株価は120くらいになるだろう」と考えたくなります。しかしこのモデルで2期間後に株価が120になることはありえません。144か96のどちらかです。平均の120はどちらとも一致しません。上がった場合の実際の値は平均より24だけ高く、下がった場合は24だけ低い。平均はあくまで平均であって、これから実現する値の予測ではないのです。

なぜこうなるかといえば、途中の情報で平均を取る操作は、まだ見えていない将来の枝分かれを潰してしまうからです。2期目にどちらへ進むかという細かい情報は、平均の中に溶けて消えています。情報が増えれば平均は更新されますが、それでも次の瞬間の値をぴたりと言い当てることにはなりません。

この「途中の情報で平均を取り直す」操作には、3つの明確な性質があります。線形に足し引きできること、既に見えている量を外に出せること、そして情報を段階的に粗くしても結果が変わらないこと。この回では、この3つを定理として述べ、全て証明します。

1. 動機 ― 途中まで見た時点で、平均はどう変わるのか

この回を読み終えると、途中までの情報で将来の支払いの期待値を更新し、後ろ向きに今日の値を計算できます。

株を買って2期間後に売ると決めたとします。最終的な株価の期待値は、何も情報がない時点では全状態の平均です。しかし1期間が経過し、株が上がったか下がったかを見た後では、もう全状態を平等に扱う理由はありません。起こりえなくなった状態を除き、残った状態だけで平均を取り直す。これが「情報で条件付けた期待値」です。

この操作には、直感を超えた構造があります。たとえば「粗い情報で条件付けた後に細かい情報で条件付ける」のと「細かい情報で条件付けた後に粗い情報で測り直す」のとでは、結果が違います。どちらが正しいかを間違えると、多期間の計算が壊れます。

今回はこの構造を3つの定理として述べ、全て証明します。道具は有限集合の分割と、各ブロックでの平均だけです。数学編 M16 で定義した条件付き期待値を、金融の文脈で使えるようにするのが目標です。

この記事で証明すること

  • THM-CEF-1 条件付き期待値は線形です。また、条件に使う情報で既に決まっている量は外に出せます。
  • THM-CEF-2(タワー則)細かい情報で条件付けた後に粗い情報で測り直すと、最初から粗い情報で条件付けたのと同じになります。
  • THM-CEF-3(後ろ向き帰納法の原理)多期間の期待値は、最後の期から1期ずつ条件付き期待値を取って遡ることで計算できます。

2. 設定と仮定 ― 情報を分割として表す

以下の仮定を全て置きます。

  • 標本空間は有限で、情報は分割として表します。
  • 条件付き期待値は各ブロックごとの平均として定義します。厳密な定義は数学編 M16 を参照してください。
  • 確率は各状態で正とします。
  • 数値に単位は付けません。

2期間2状態モデルを使います。株価は で、各期に上昇率 または下落率 が掛かります。状態空間は の4つです。各状態の確率は の独立な試行で とします。

時刻2の株価 は次の通りです。

状態
120 144
120 96
80 96
80 64

情報とは、 の分割です。時刻1の情報 は、第1期に上がったか下がったかだけを区別します。

ブロック を 、ブロック を と書きます。 の中にいる人は「第1期に株が上がった」ことは知っていますが、第2期にどうなるかはまだ知りません。

確率変数 の、情報 のブロック における条件付き期待値は、 内の確率で割った加重平均です。

たとえば として 上の条件付き期待値は

です。同じ計算をブロック 上で行うと になります。

ここで大事なのは、 が一つの数ではなく、状態によって値が変わる確率変数であることです。 上では 120、 上では 80。この点を節の最後に改めて強調します。

まとめると、情報は の分割で表し、条件付き期待値はブロックごとの加重平均です。条件付き期待値は数ではなく確率変数です。

3. 主張 ― 情報で条件付けた平均が満たす性質

3つの定理を述べます。

定理 THM-CEF-1(条件付き期待値の性質) を確率変数、 を定数とする。

(a) 線形性: が成り立つ。

(b) 既知量の取り出し: が情報 で既に決まっている( の各ブロック上で定数である)なら、 が成り立つ。

定理 THM-CEF-2(タワー則) が より粗い情報であるとき( の各ブロックが のブロックの和集合になっているとき)、

が成り立つ。粗いほうで測り直すと、細かい情報は消える。

定理 THM-CEF-3(後ろ向き帰納法の原理) 情報が と細かくなっていくとき、

が成り立つ。これは THM-CEF-2 の繰り返しに他ならない。多期間の期待値は、最後の期から1期ずつ条件付き期待値を取って遡ることで計算できる。

定理は3つとも「有限集合のブロックごとの平均」から導かれます。次の節で全て証明します。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― ブロックごとの平均から性質を出す

この節は読まなくても記事は完結します。

この証明を追いたい人は、数学編 第13回「σ加法族と可測性」、数学編 第16回「条件付き期待値は射影である」へ。

THM-CEF-1(a) の証明(線形性)

のブロック を任意に取ります。定義 (2.1) に従い、左辺を書き下します。

分子の和は有限和なので、定数 を外に出せます。これは有限和の分配法則です。

分母はブロック の確率 で共通ですから、分子を分けた後にそれぞれを で割ります。

ブロック は任意だったので、全ての で等式が成り立ちます。 ∎

数値で確認します。 , , とします。

ブロック 上で , なので右辺は 。左辺の を計算すると、, の平均で 。一致します。

ブロック 上でも同様に、左辺 242 = 右辺 。一致します。

THM-CEF-1(b) の証明(既知量の取り出し)

は の各ブロック上で定数です。ブロック 上で (定数)とします。ブロック 上の条件付き期待値を定義に従って書きます。

では ですから、 を和の外に出せます。これが「 がブロック 上で定数である」という仮定を使う箇所です。

ブロック は任意だったので、全ての で が成り立ちます。 ∎

数値で確認します。 (時刻1の株価)は で決まる量です。 上で (定数)、 上で (定数)。

上: 。一方 。一致します。

上: 。。一致します。

もし がブロック上で定数でなければ、 を和の外に出す操作ができず、等式は成り立ちません。「情報で決まっている」という条件は不可欠です。

THM-CEF-2 の証明(タワー則)

のブロックを 、 のブロックを とし、 とします。 が より粗い仮定から、 の各ブロックは のブロックの和集合になります。

に対し、左辺を定義通り書きます。 は のブロック 上で定数 を取ることに注意します。

ブロック の中を のブロック に分けて和を取ります。 で、これらは互いに素です。

は 上で定数ですから、内側の和で外に出せます。

ここで の定義を代入します。

これを (4.4) に入れると、 が約分されます。ここがタワー則の核心です。

最後の等号は、 たちが の分割であることから来ます。(4.3) に戻すと

ブロック は任意だったので、全ての で等式が成り立ちます。 ∎

直感的な読み方。 細かい情報 で平均を取った結果を、さらに粗い情報 で平均し直すと、中間の細かい情報が消えて最初から で平均したのと同じになります。証明の中で が約分される箇所がこの「消える」操作に対応しています。

特別な場合。 を自明な分割 (無情報)にすると、タワー則は

になります。つまり、条件付き期待値の無条件な期待値は、もとの無条件な期待値に一致します。数値で確認すると、 は 上で 120、 上で 80 で、その無条件な期待値は です。これは と一致します。

THM-CEF-3 の証明(後ろ向き帰納法の原理)

情報が と細かくなるとします。 の場合を示せば、帰納法で一般の に拡張できます。

のとき、示すべきは

内側から処理します。 なので THM-CEF-2 を適用すると

(4.5)
(4.5)

一般の への拡張は、 まで成り立つと仮定して同じ操作を1回追加するだけです。最も内側の条件付き期待値にタワー則を適用するステップが1つ増えるだけで、論理は変わりません。 ∎

後ろ向き帰納法が実用的に有用なのは、多期間モデルで最終時点から1期ずつ条件付き期待値を計算すれば、初期時点の期待値が得られるからです。全状態を一度に扱う代わりに、各段階でブロックごとの平均を取る計算に分解できます。

5. 反例 ― 情報の粗さを取り違えると壊れる

CEX-CEF-1: 条件付き期待値は数ではない

は数ではありません。確率変数です。 上では 120、 上では 80 です。時刻1の情報が確定するまで、どちらの値を取るかはわかりません。

「条件付き期待値を計算したら答えが一つ出る」と思っていると、ここで躓きます。条件付き期待値は「情報に応じて変わる関数」であり、情報が確定して初めて一つの値になります。

CEX-CEF-2: タワー則の向きを間違える

タワー則 (3.1) は粗い情報 で測り直す方向の等式です。

では逆に、細かい情報 で測り直したらどうなるでしょうか。 を時刻1の情報、 を時刻2の情報(最も細かい分割、各状態を区別する)とします。

は 上で 120、 上で 80 の確率変数です。これは -可測なので、 で条件付けても値は変わりません。

もしこれが に等しいと期待するなら、それは間違いです。 そのものですから、

状態
120 144
120 96
80 96
80 64

4つの状態すべてで値が異なります。粗い情報で平均を取った時点で、個別の状態ごとの情報は潰れてしまっています。細かい情報で改めて条件付けても、一度失われた情報は戻りません。

タワー則は細→粗の方向でだけ成り立ちます。粗→細の方向では、一般に等式は成り立ちません。

CEX-CEF-3: 条件付き期待値で将来の価格は予想できない

「 なら、第1期に株が上がった場合に と予想できる」――これは誤りです。

ブロックの中で、実際の は なら 144、 なら 96 です。条件付き期待値の 120 はどちらの実現値とも一致しません。

  • が実現したとき: 予測値 120、実際 144、誤差
  • が実現したとき: 予測値 120、実際 96、誤差

条件付き期待値は「今ある情報での平均」であって、「将来の値の予測」ではありません。平均が 120 であることは、実現値が 120 になることを意味しません。第45回で扱う価格付けの文脈では、この期待値を別の確率のもとで計算する形になりますが、それはまた別の話です。

6. 数値例 ― 2期間モデルで条件付き期待値を全部出す

すべて compute.py で厳密計算した値です。

基本データ

, , , (各期独立)。

状態
120 144 1/4
120 96 1/4
80 96 1/4
80 64 1/4

時刻1の情報で条件付けた期待値

ブロック
120
80

無条件の期待値が条件付き期待値の平均に一致する(タワー則の帰結)

後ろ向き帰納法(3期間モデル)

, , , 3期間・各期独立・確率 。

時刻3の株価:

状態
172.8
115.2
76.8
51.2

時刻2の条件付き期待値(1ステップ目):

ブロック
144
96
96
64

時刻1の条件付き期待値(2ステップ目):

ブロック
120
80

時刻0(3ステップ目):

直接計算 と一致します。

1期ずつ遡る後ろ向き帰納法が、全状態を一度に平均する直接計算と同じ結果を与えることが確認できました。これが THM-CEF-3 の主張です。

情報の粗さを取り違えた場合

状態 差
120 144
120 96
80 96
80 64

4つの状態全てで不一致です。

7. 次回へ ― 情報が時間とともに増える様子

今回は「時刻1の情報で条件付ける」「時刻2の情報で条件付ける」と手で分割を指定しました。しかし金融モデルでは、時間が経つにつれて情報が自動的に増えていく構造が必要です。

第24回では、この「時間とともに細かくなっていく分割の列」を正式に定義します。数学ではフィルトレーションと呼ばれるこの概念を使うと、条件付き期待値を時間のインデックス付きで自然に扱えるようになります。今回のタワー則や後ろ向き帰納法は、フィルトレーションの言葉で書き直すとさらに見通しがよくなります。

次のマイルストーンまであと 19 本です。

よくある質問

条件付き期待値は数ではないのですか

情報が確定するまでは確率変数です。どの場合にいるかによって値が変わります。

タワー則は何の役に立つのですか

多期間の計算を1期ずつに分けられます。後ろ向き帰納法はこれを使っています。

これで将来の価格が予想できますか

できません。今ある情報での平均が出るだけです。価格付けに使うときは、別の確率に取り替えます。

参考文献

  1. Shreve S. E.、Stochastic Calculus for Finance I ― The Binomial Asset Pricing Model、Springer、2004年
  2. Williams D.、Probability with Martingales、Cambridge University Press、1991年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。

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