数学編 第7回 ベクトル、行列、内積 ― ポートフォリオは内積である

数学編 第7回 ベクトル、行列、内積 ― ポートフォリオは内積である

位置: 数学編 第7回 / 前提: なし / 数学編: なし / この回でできるようになること: ポートフォリオの価値や期待リターンを、ベクトルの内積として計算できる

目次

0. 物語 ― 行列の積の順番を入れ替える誤り

リスク管理チームで、新人のアナリストがレポート用の計算をしています。手元には2行2列の数値が並んだ表が2つあります。片方はポジションの重み付けを表す表、もう片方は列の並び替えに使う表です。先輩から「この2つの表を順番に掛け合わせてほしい」と頼まれました。新人は深く考えず、手近にあった表から先に掛けてしまいました。

出てきた結果を先輩が確認すると、左上のマスは2になるはずが3に、右上は1のはずが4になっています。4つの数値がすべて食い違いました。新人は計算を間違えたのかと思いましたが、もう一度やり直しても同じ答えです。

普通の数の掛け算なら、3かける5も5かける3も答えは15です。ところが、数を長方形に並べた「行列」の掛け算では、どちらを先にするかで結果が変わります。これは新人の不注意ではなく、行列の掛け算がもともと持っている性質です。

ポートフォリオの収益率を求めるときにも、似た構造が出てきます。保有比率と各資産の収益率を1つずつ掛けて全部足す操作です。たとえば5割、3割、2割の比率で持つ3資産の収益率がそれぞれ8%、5%、2%なら、全体の収益率は5.9%になります。この「対応する成分を掛けて足す」操作は内積と呼ばれます。ベクトルや行列の言葉で整理すると、ポートフォリオの構造が見通しよくなります。

内積には自然な上限があります。2つの並びの内積の絶対値は、それぞれの「長さ」の積を超えません。一方がもう一方の定数倍でない限り、厳密に小さくなります。本編で相関係数がマイナス1から1に収まるのは、この性質が根にあります。さらに、ベクトルの組が線形独立なら、その組で表せる任意のベクトルをただ一通りの係数でしか表せないことも、この記事で証明します。

1. 動機 ― 保有比率と収益率を掛けて足す操作の正体

この回を読み終えると、ポートフォリオの価値や期待リターンを、ベクトルの内積として計算できます。

3つの資産に保有比率 で投資しているとします。各資産の収益率が であったとき、ポートフォリオ全体の収益率は

です。この「対応する成分どうしを掛けて全部足す」操作は、線形代数では内積と呼ばれます。ポートフォリオの収益率は、保有比率ベクトルと収益率ベクトルの内積にほかなりません。

本記事では、内積の基本性質を証明し、コーシー・シュワルツの不等式を導き、線形独立の概念を整理します。これらはすべて、本編で分散やリスクを扱うときの土台になります。

この記事で証明すること

  • THM-M7-1 内積は双線形・対称で、自分自身との内積は非負です。0 になるのは零ベクトルに限ります。
  • THM-M7-2 2つのベクトルの内積の絶対値は、それぞれの長さの積以下です(コーシー・シュワルツの不等式)。等号は一方が他方の定数倍のときに限ります。
  • THM-M7-3 ベクトルの組が線形独立であることと、その張る空間の任意のベクトルが一意な係数で表せることは同値です。

2. 設定と仮定 ― 有限次元のベクトル

個の実数を縦に並べたものを 次元ベクトルと呼び、全体の集合を と書きます。

ベクトルの和とスカラー倍を成分ごとに定めます。

成分がすべて 0 のベクトルを零ベクトル と書きます。

行列は数を長方形に並べたものです。 行列 の 成分を と書きます。 行列 と 行列 の積 は 行列で、 成分は

です。この定義から、行列の積は一般に交換法則を満たしません。 となる例は反例の節で示します。

2つのベクトル の内積を

で定めます。ベクトルの長さ(ノルム)は です。

この節では、有限次元のベクトル・行列・内積の定義を整理しました。

3. 主張 ― 内積は長さと角度を決める

3つの定理を述べます。

定理 THM-M7-1(内積の性質) の内積 は次の4条件を満たす。

  1. 双線形性: であり、第2引数についても同様である。
  2. 対称性: である。
  3. 非負性: である。
  4. 正定値性: である。

定理 THM-M7-2(コーシー・シュワルツの不等式) 任意の に対し、

が成り立つ。等号は と が線形従属(一方が他方の定数倍)であるときに限る。

定理 THM-M7-3(線形独立と一意な表現) ベクトル が線形独立であることと、 の線形結合で表せる任意のベクトルの表し方が一意であることは同値である。

ここで線形独立と線形結合を定義しておきます。 が成り立つのは のときに限るとき、 は線形独立であるといいます。 の形のベクトルを線形結合と呼び、全体の集合を の張る空間 と書きます。

3つの定理は、内積・長さ・係数の一意性という、ポートフォリオの分析に必要な骨格を与えます。

証明を読む(読まなくても記事は完結します)

4. 証明 ― 判別式からコーシー・シュワルツを出す

この節は読まなくても記事は完結します。

THM-M7-1 の証明

4つの性質を順に示します。

双線形性(第1引数)。 定義 から展開します。

第2引数についても、和の各項で に掛かるスカラーを括り出すことで同様に成り立ちます。実数の分配法則と和の線形性だけを使いました。

対称性。 実数の乗法は可換なので です。したがって

非負性。 各項 なので

正定値性。 ならば明らかに です。逆に とします。各 であり、その和が 0 になるには すなわち が全ての で成り立つ必要があります。よって です。 ∎

THM-M7-2 の証明(判別式による方法)

のとき、両辺はともに 0 で等号が成り立ちます。以下 とします。

任意の実数 に対して、非負性(THM-M7-1 の性質3)から

が成り立ちます。双線形性と対称性を使って左辺を展開します。

これは の2次関数 です。ここで

は と正定値性から従います。 がすべての で成り立つので、判別式が非正でなければなりません。

代入すると

両辺を 4 で割ると が得られます。

等号条件。 等号が成り立つのは判別式が 0、すなわち となる が存在するときです。正定値性から は を意味し、 です。逆に なら

となり等号が成り立ちます。 ∎

THM-M7-3 の証明

(⇒) 線形独立ならば表し方は一意。

が2通りに表せたとします。

辺々引くと、線形結合の差がゼロベクトルに等しくなります。

線形独立の定義から、零ベクトルの線形結合の係数はすべて 0 でなければなりません。よって ()、すなわち です。表し方は一意です。

(⇐) 表し方が一意ならば線形独立。

対偶を示します。線形独立でないとき、すなわち

となる係数が存在するとき、表し方が一意でないことを示します。

を考えます。明らかに は表し方のひとつです。一方 も の表し方ですが、 なので係数が異なります。よって の表し方が一意でありません。 ∎

5. 反例 ― 線形従属だと表し方が一意でない

CEX-M7-1: 線形従属な組では係数が一意に定まらない

で3つのベクトル

を取ります。 なのでこの3本は線形従属です。

ターゲット を2通りに表せます。

表し方1:

表し方2:

係数 と は異なりますが、同じベクトルを表しています。THM-M7-3 が予告する通り、線形従属な組では一意性が壊れます。

CEX-M7-2: ベクトルの和の長さは長さの和ではない

「長さの和 = 和の長さ」と思い込むと計算を誤ります。, を取ります。

長さの和は ですが、和の長さは です。一致しません。

正しい関係は内積による補正項を含みます。

この例では なので です。内積が 0 でない場合はさらにずれます。, では であり、

補正項 が長さの二乗を押し上げています。リスクの計算で分散の加法性が崩れるのは、まさにこの補正項(本編では相関に相当する項)のためです。

CEX-M7-3: 行列の積は交換できない

に従って計算すると

です。 成分だけ見ても で、積の順序を入れ替えると結果が変わります。行列の積が非可換であることは、ポートフォリオのリバランスや座標変換の順序が結果に影響することの数学的根拠です。

反例3つを通して、線形従属・長さの加法性・行列の非可換性という、よくある誤解の壊れ方を確認しました。

6. 数値例 ― ポートフォリオ収益率を内積で出す

3資産のポートフォリオで内積を実感します。

保有比率ベクトル 、収益率ベクトル とします。ポートフォリオ収益率は

厳密には です。

コーシー・シュワルツの不等式の検証。 , に対して

なので不等式は成り立っています。 と は定数倍の関係にないので、厳密な不等号です。

等号が成り立つ例。 とすると

一方が他方の定数倍なので等号が成り立ちます。本編の相関係数でいえば、完全相関(相関 )の状態にあたります。

この節では、内積がポートフォリオの収益率そのものであること、コーシー・シュワルツの不等式の両辺を数値で確認しました。

7. 次回へ ― 分散が非負であるということ

内積は長さと角度を与え、コーシー・シュワルツの不等式は相関係数に上限を課します。次回 M8 では、内積の構造をもう一段深く使います。 個の資産のリスクを一度に扱うとき、保有比率ベクトル の「長さの二乗」にあたる量が分散です。分散が非負であるという事実は、ある行列の性質(正定値性)として定式化されます。効率的フロンティアの計算も、この枠組みの上に立ちます。

よくある質問

なぜポートフォリオが内積なのですか

保有比率と各資産の収益率を掛けて足すと、ポートフォリオの収益率になるからです。まさに内積の定義です。

コーシー・シュワルツの不等式は何に使いますか

相関係数が -1 から 1 に収まる理由がこれです。

線形独立はなぜ大事ですか

ほかの資産の組み合わせで作れる資産が混ざっていると、組み合わせ方が一意に決まらなくなるからです。

参考文献

  • 齋藤正彦、線型代数入門、東京大学出版会、1966年
  • Strang G.、Introduction to Linear Algebra、第5版、Wellesley-Cambridge Press、2016年

数値例は compute.py により有理数演算で検算済み。本文中の小数は4桁で丸めている。

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